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ジョーカーのCookieMonsterのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
3.9
ジョーカーがジョーカーになるまで、を描くDCの名を借りた社会派作品

ジョーカーもゴッサムも出てくるけれど、その設定はDCの世界観を描く為のものではなく、社会との隔絶や弱者の孤絶を描く為のツールとして利用されている
きっと同じテーマを撮っても、これほど注目されることはきっとなかった
(同じテーマの“ダニエル・ブレイク”は批評家に評価されこそすれど世間的には無視された)
そういう意味で、アメコミやジョーカーは作品のアイキャッチとなる手段でしかないように見える

話題となり、リピーターが多い作品のよくある特徴は、その解釈の多様性にあると思う
そしてこの作品においてそれは“笑い”にある
アーサーは笑う
しかしそれは所謂正の感情としての笑いではなく、様々な感情を伴って発現する
そして作品中で無闇に説明をしない
そこに鑑賞者が解釈できる余白が生まれ、作品に奥深さを与えている(ように感じさせる)

よく言われるように、笑いとは緊張と緩和によって生まれる
緊張によって高まった感情が緩和して解放されるときに笑いが生まれる
アーサーには緊張により笑いが止まらなくなる病気がある
ジョークを話しているときでも、自分で笑ってしまう彼は自ら緊張を生み出すことができない
それはコメディアンとして致命的な資質の欠如であり、他者との隔絶の象徴でもある
コメディアンになることで他者との繋がりを求めたことは絶望でしかなく、それが隔たり自体を生み出すことになるという構図は皮肉でしかない
但し、彼は他者に緊張と緩和をもたらす別の術を見つける
殺人だ
暴力という緊張
死という緩和
それは同時に復讐の手段でもある
自分へ辛くあたったもの、自らの致命的な資質への

アーサーは常に笑おうとする
それは弱者が幸せに生きようとする為に用いる術のひとつであり、感情の偽りでもある
病気である彼は感情を解放することができない
しかし、アーサーにとって殺人は感情の解放であり、表現となる

アーサーがジョーカーに変身するためには単なる殺人では足りない
重要なのは親殺しだ
作品にはアーサーの親が3人存在する
母のペニー、トマス・ウェイン、そしてコメディアンのマレー
この3人ともに血縁関係はないが、精神的な親子関係がアーサーの中に構築されており、それらを殺すことが彼を正常の軛から解き放つトリガーになる
彼らはそれぞれアーサーの一方的な愛を裏切り、拒絶する
ペニーには愛に嘘があった
トマスは関係を拒絶した
マレーはアーサーの存在を笑った
愛が憎しみに逆転する瞬間がある

だから作品の後半になり、彼の世界は逆転する
看板を奪った子供たちを追いかけたアーサーは警察に追いかけられ、疲れた足取りで登っていた階段を踊りながら下り、暴力を振るわれて地べたに這いずったことを忘れ殴り倒される姿を見下ろす
正気は狂気になり、被食者は捕食者になり、悲劇は喜劇になる

親殺しは父親であることを夢想したトマス・ウェインが自分のフォロワーに殺されることで完結する
間接的な殺人
彼を正常に留める、社会との繋がりは断絶し、それがジョーカーとしての狂気を生み出す

またここで重要なのは血の否定だと思う
狂気とは遺伝的なものではなく、環境因子によって発芽するものである解釈
誰しも狂気に陥る可能性の示唆
そして逆説的には社会や正気との繋がりがどこかにあれば、繋ぎ止められたのかも知れないともとれる
そうした意味では、社会の構成員としての鑑賞者一人一人の責任を問われているとも言えるかも知れない

こうした描写により、得体の知れないジョーカーの狂気は解釈可能なものへと変化する
一見理解できないものを理解可能なものに変換することで、他者との断絶は回避可能だというメッセージがこの作品には込められているのかもしれない

とはいえ、この作品が手放しで傑作と言えるものなのかというと疑問だ
狂気に陥るまでの過程は丁寧だが、スジはとてもステレオタイプだし過去の映画史でも多く語られてきた語り口だ
親殺しのテーマは神話時代から扱われてきた
現代社会と紐づけた問題提起は説教臭く感じさせずにいるのはジョーカーというヴィランの存在とDCというオマケ情報があるからに過ぎないのではないか?
作品のオリジナリティの多くは、ホアキン・フェニックスの演技に依拠していると言えなくもない

そこを踏まえても、MCU全盛の時代にヴィランというツールを利用して問題提起するマーケティング性、社会問題との符号性、そもそもの作品のクオリティとして、いまを知ることのできる、観るべき作品であることは間違いないと思う
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