偽名祐司

ジョーカーの偽名祐司のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
3.4
ある意味今年一番の問題作で非常に配点に困る作品。ここまで点数をつけるのに困った作品もそうそう無いです。
人が堕ちる作品としては5点
しかしジョーカーという狂気を描く作品としては0点
賛否両論起こす時点で良い映画ではあるのですがこの作品は絶賛してはいけない気がします。


狂気=気が狂っている事、異常をきたした精神状態
異常=正常でない、通常でない、普通でないなどとされることの総称

何をもって異常とするかは議論が多く一定の正解は無い。
正しさの定義は行われるが。
統計学的には平均値的な基準から著しく外れたもの、正規分布の下端と上端(全体の5%に当たる)を異常と称する。
以上は辞書等に載っている言葉の意味にあたります。
個人的な意見では狂気=異常ってのは普通に入らない、理解できないものという事だと思っています。という前提を。


話はアプリ参照で。
貧困と荒廃が進む街ゴッサムシティ。病気の母の介護をしながら自らも疾患を抱える中年、アーサー。
ピエロの派遣芸人をしながら一流のコメディアンを夢見る日々。彼は何故「悪のカリスマ」「狂気の天才」と称されるジョーカーとなったのか。

一言では言い表せないので各方面から。
一つの映画としては実に素晴らしい作品です。面白いかどうかは別として。

トゥレット障害という「自分の意図とは関係なく笑ってしまう」神経疾患を抱えるアーサーが、様々な絶望に塗りこめられ、JOKERへ変貌していく展開は、音圧や絵の圧力も相まって凄い迫力をもって「人が堕ちる姿」を表します。
仕事の不調や、同僚からのからかいに始まる、丹念に丹念に希望や良い話を一つ一つかき消していく展開はひたすらに重たく、喜劇風の演出を入れても尚観る人に重たい感情を与えます。
それ故に遂にJOKERとして覚醒したアーサーに開放感を感じる人も多いと思います。常に人生に絶望を感じながら一歩一歩登る階段をJOKERとなって踊りながら軽々と降りるシーンは実に良い。

監督が公言してますが「タクシードライバー」「キングオブコメディ」が影響を及ぼしてるそうですが、及ぼしてるっていうかほぼそのまんまです。特にキングオブコメディ。
見方によっては最初から最後まで全てJOKERの妄想とも見る事も出来ますが、個人的には流石にそれは無いかなあと思ってます。彼女の件で二重妄想をする必要ないはずですし。


次にキャラクターについて
「ホアキン・フェニックス」演じるアーサーが素晴らしい。
作品云々については賛否両論分かれるかもしれませんが、この人の演技については満場一致だと思います。
それほどに痩せこけ、弱弱しく、母を思う優しい男が絶望し壊れていく姿を熱演?怪演?適当な言葉が思いつかない程の入り込みを魅せています。
特に障害でも出てくるありとあらゆる笑い。
素直な笑い、演じる笑い、悲しい笑い、怒りの笑い、障害の笑い、皮肉な笑い、嘲笑、哄笑、微笑。
しかも神経障害による自らの感情とは違う時の笑いまで。
素顔のアーサーの時の仮面の笑いからメイクを施したJOKERと化した時の素直な笑いの使い分けは絶賛せざるを得ません。
「キングオブコメディ」で一流コメディアンに憧れる側の「ロバート・デ・ニーロ」が今回では憧れる対象になっているのはマニアックな映画ファンには面白い設定ですね。

話について
非常に現代風刺に溢れていて、様々な見方が恐らく出来るであろうと思いますがここでは省略。
アーサーが実に孤独で、福祉事業を打ち切られ、手に入れたように見えた彼女との幸せは幻想で。
友人もおらず。
自らのアイデンティティも無くし、家族すら無くすという「これだけやられたら狂うしかないだろう?」と思わざる得ない不運、不幸の連続で。
その一つ一つは現状どこにでも転がっているであろう状況に、思わず共感したくなります。
現に様々なレビューや評価で「JOKER」は社会悪だったり、世の中が生み出した等の表現を目にします。
この作品の作りではそう感じる人もいるだろうし、ある程度理解はします。



ここからは個人的なカウンター意見。
非常に作品としては素晴らしいと思うのですが。個人的に評価できない理由が2つ存在します。

1つ。観客に「JOKER」というキャラクターの存在を知っている事を前提にしている
2つ。JOKERという狂気を理解できるように表現した

言い換えれば違和感があるのです。

1つ。単に上流階級層の人間を銃で撃ち殺しただけのJOKERが何故ゴッサムでヒーローの如く祭り上げられるのか。
2つ。今まで語られたJOKER像やそのキャラクターと今回のアーサーの行動が乖離しすぎている。


まず一つ目。
JOKERはバットマンのアンチテーゼ的な作られ方をしたヴィランです。
何の超人的な能力を持たないブルースウェインが両親の命を奪った犯罪への憎しみを糧に鍛えた肉体と様々な財力と開発した武器を手にたった一人でコウモリのコスプレアーマーを身につけ戦うバットマン。
彼に対し、同じく何の能力も持たずただの銃を持った一般人程度の強さであるのにかかわらず、悪魔的な頭脳と狂気の計画で追い詰めていくJOKER。

正義の物語には悪が必要であり、その悪が闇深ければ深い程正義の光は輝きます。
個人的には物語には素晴らしい悪役がいないと面白くならないと思うのです。JOKERという存在は基本的に「バットマン」という物語の中に存在するから素晴らしいのだと。
簡単にバットマンに倒される敵では話は面白くなりません。圧倒的にバットマンを追い詰める、バットマンの正義をも揺らがせる敵が出てくる、だからこそ観客は話の展開が気になるのですから。
そしてその物語には基本的に悪が勝利する事は期待されていません。いったん負ける事はあったとしても最終的には必ず正義側が勝つ事になります。
何故ならこの話は正義の物語だからなのです。「水戸黄門」や今なら「相棒」あたりでしょうか。
長年やってるそういった物語に主役側が死んだり、悪に走る結末を望む人がどこにいるでしょうか。
基本的に負ける事が前提で作られたキャラクターなのです、JOKERに限らず、ヴィランと呼ばれる敵役達は。

そんな中、何回負けてもしぶとく復活し、正義のバットマンに狂気で挑むJOKERであるからこそ作中でも作品外でも人気が出ているのです。
それ故の悪のカリスマなのです。

しかし今作のアーサーが魅せたのは人が絶望の先にある暴力に堕ちる姿ではあるのですが。
その犯した犯罪については魅せられるものが無いはずなのです。

いくら社会が、環境が、という理由があってもアーサーの起こした行動に世の人が熱狂し、祭り上げる理由にはなりません。そんな事は現実の社会に生きる私達なら理解しているはずです。

現実に世界各地で起こってる銃乱射事件、日本でも起きてる連続切り裂き魔、ごく最近に起きた痛ましい放火事件。

そういった事件を起こした犯人に私たちは熱狂するでしょうか?賞賛します?
犯人達の環境がアーサーのような地獄だったら百歩譲って同情しますか?
そんな事は私の中ではあり得ません。
どんな理由があれば自らの大切な人を殺されても良いのか。
今回アーサーの銃に倒れた4人の人間の関係者がいたとして、彼らにアーサーの解放の為には仕方が無い、と声をかけろとでも?

私達がアーサーの犯罪行動にある種の解放を覚え、トーマス一家との繋がりを知り、作中同様に紫のスーツにクラウンの化粧姿に熱狂を覚えるのは
「アーサーの変身がバットマンのヴィラン、JOKERとしての誕生」
である事を理解しているからです。

もし、彼がバットマンとは何の関係もなく、例えば過去の実際の犯罪者のドキュメンタリーとしてこの話があったとします。
同じようにホアキンフェニックスの演技は絶賛され、重く圧力がある展開はある程度評価されるでしょう。ですがここまで絶賛はされないと思うのです。


簡単にまとめると本来はバットマンを抜きにしてJOKERという存在をカリスマとしては描けないはずであるのに
「観客にバットマンの世界観とJOKERの知識がある事を前提に」
作ってしまっているのです。
それ故に恐らく「JOKER」を知らない観客が観た場合、最後の展開が理解できないのではないかと思います。


そして二つ目。
こっちが個人的には最大に評価を下げざるを得ない点であるのですが。
JOKERの行為が理解できてしまう点。


作家の森博嗣は作中でこんな台詞を書いている
「我々は、ただひたすら、自分達の精神安定のために、自分達を納得させてくれる都合の良い理屈を構築しているに過ぎません。殺人犯の動機なんて、事件に関係ない者のために用意された幻想です」
「殺人者の心境を理解して何が嬉しいのだ。何が得られる?」
「嬉しいのではなく、我々一般人の想像の範囲内であった、ということで、まあ、一応は納得ができる、と申しますか、安心するわけです」
「何を馬鹿なことを……。殺人者の心境が想像の範囲内であることの方が不健全ではないか。それでは、自分もいつか人を殺したくなるかもしれない、と思って落ち着けるというのか? それよりは、遊びで殺した、全然理解できない、で済ませる方が私は安心だ。」
「とうして犯人はこんなことをしたのか。どんなふうに考えたのか。もし、それが異常だとしたら、どうしてそんな異常な人間になってしまったのか。それを説明してほしいんです。その説明を聞かないと安心できないんです」
「その安心は、結局のところ、その犯罪と自分との距離をとりたい心理にすぎない」
「犯行の動機が理解できないことで、自分との距離が遠いと確認したい。異常だというレッテルを貼ることで処理できる。自分のごく身近にそういう異常さがなければそれで良い。」
「もう少し分析したい人は犯人の過去に間違いがあったことにしたがる」
「親が親らしくなかった、甘やかされていた、友達がいなかった、勉強ばかりで常識がなかった、優等生だったのに途中で挫折した、そういう理由を見つければ、それが原因だと理解したつもりになれる。」
「理由は必ずある、ただしその理由が、言語として他人に伝達可能かどうか。あるいは、たとえ伝達可能であっても、他人の共感を得られるかどうか、という問題が残るだけ」
「確かに、社会の理解を得て、刑が軽くなるような殺人が存在する。それは逆にみれば、死刑と同じで、人が人を裁いている事になる。そいうった殺人を認めることは、正義のためなら戦争を許容し、正義のためなら死刑を許容することへ進む可能性がある。正義という名前の理由があれば、人を殺しても良いことになる、その理由がないものは駄目だ、という理屈になる、では正義とは何か?」
「私は、自分が殺されたくないからです。それ以外に理由はないわ。私はもう少しやりたいことがあって、もう少し生きていたい、という極めて個人的な希望を持っているの。勝手で我儘だけど、そうなんだからしかたがないわ。つまり、それだけ。それだけなのよ。だからその美しいかもしれない殺人を、私は認めるわけにはいかないの。それは私のエゴです。私が殺されたくないから、皆も殺さないで、という自分に都合の良い事を主張しているわけ。そのエゴが集まって、社会のルールを作っているだけのことなんだ、これは正義でもなんでもないわ」


後半いくとドライすぎる考えともいえますがこの表現は割と私個人の思想に合います。


アーサーは確かに一般的に観て同情せざるを得ない環境に居ます。
それはもう同じような環境、全てではないにしろ一部はもっと酷い現実を生きてる人もいるでしょう。
だからこそ今作のJOKERは共感されやすい。
中には彼が作中で犯した暴力や犯罪を理解できるという人もいるほどです。

共感というのは大事な事で、理解できるという事。
100人中2人にしか理解されない素晴らしいアーティスティックな映画と100人中98人が楽しめる解り易いエンターテイメントのどちらが興行的には必要か、という事をあえて言うまでもなく、映画が商業である以上必要不可欠な要素です。

ですがこれは救われる要素を徹底的に排除した話の中で暴力に堕ちる男の話、ではなく、JOKERの狂気を描く作品です。つまり、単純に言えば理解できてはダメなのです。
共感し、理解できるような話は狂気ではないのですから。

原作のJOKERやヒースロジャー版のJOKER、なんなら監督がほぼそのまんま参考にした「キングオブコメディ」の主人公。
彼らは観ていても所謂ヒーロー作品のお約束を容赦なく破る、理解できない、人の話が全く通じない、そういった狂気を感じました。


しかし今作のアーサーが見せる犯罪はそういった狂気とは無縁のものです。
最初の銃撃と最後の銃撃。
どちらもただの光が見えない絶望と鬱屈しかない人間の暴力への転化でしかなかった。
そしてそれ故に理解できてしまう。
あまりの希望の無さに。簡単なバランスが崩れた先でしかない光景に。
恐らくその誰しもがひょっとしたら自分もそうなるかも知れない、この現実にもアーサーが居るんじゃないか、と思わせる映像と話であったからこそここまでの共感を呼び評価されて商業的にも成功しているのでしょう。

その事が同時に狂気を描けていない証拠であるはずです。

言い方を変えるなら狂気を理解できてしまうように描いてしまった証拠でしょうか。

一応「JOKER」としての始まりであるので現在のJOKER程の狂気が無くても良い、という擁護も出来ないこともありませんが、それでも現実の狂気としか思えない人物はどこまで行っても理解できないものです。

最後に「面白いギャグがあるんだ、君には理解できないと思うよ」と言いますがその台詞に頼りすぎな感じもあります。

結局個人的にはアーサーが起こしたの暴力と犯罪は理解できるものに過ぎなかったので。

以上の二つの理由により点数的には絶賛はしません。
しませんが、とても多くの意見が生まれる作品ではありますし、多くの見方が出来る作品っていう時点でやはり素晴らしいものだと思います。
ですので今回はこの点数って事で。


あえて人には勧めませんが、観た人とは語り合いたくなる映画ではあるので、興味がある人はぜひ観て感想を聞かせて下さい。
偽名祐司

偽名祐司