YokoGoto

長いお別れのYokoGotoのレビュー・感想・評価

長いお別れ(2019年製作の映画)
3.6
<家族という塊は、常に新陳代謝を続けている>

人は産まれ落ちてくる『家族』を選ぶことはできない。
これは、万人共通の運命(さだめ)である。
だから、誰一人例外はなく、偶然産まれ落ちた、その家族関係の中で一生を終えていく。

私達は、産まれて初めて接する人間関係が、自分の家族だ。
さらにいえば、死ぬ時に、もっとも近くで接する人間関係もまた、自分の家族である。

家族で始まって家族で終わる。
このように、人間社会における最小コロニーが『家族』であるという事が言えよう。

しかしながら、運命(さだめ)に基づき繋がった家族関係も、実は一筋縄ではいかないのが現実だ。最も身近である、自分とは違う他人。自我と自我がぶつかりあい、価値観の相違や感情のすれ違いは、むしろ赤の他人よりも鬱陶しく煩わしい。

それでも、切ることのできない家族という血縁に、良くも悪くも、自分の人生は巻き込まれていくのである。

中野量太監督の本作品『長いお別れ』は、家族の中の家長である父親が認知症になる事をきっかけに、父親を取り囲む家族たちの、様々な感情と葛藤、そして父の変化を受け入れていく長い長い物語である。

時系列は7年間。
7年の間に起こる、父の変化と家族の心(感情)の変化を、優しい眼差しで描いた作品である。

どうしても、『認知症』という題材を扱うと、暗く重いテーマになりがちである。しかし本作は、時々ユーモラスに、そして終始、温かい手触りで進むシナリオで展開され、実に中野量太監督らしい作風になっている。

キャストには、有名所を揃えてはいるため、とかく色が付きがちになる所を、監督の演出のせいであろう、非常に自然で、本物の家族のように見える演出が非常に光る。

『長いお別れ』の原作はあるものの、脚本は中野量太監督が手がけているので、恐らく、だいぶ中野監督風に仕上がっているのだと思う。

そして、『認知症』と『家族』というテーマであるため、観る人の、それぞれの立場で感情移入することができる。主人公の父の立場、妻の立場、子の立場、そして孫の立場…。様々な立場で、ほんのり感じ方や見え方も異なるだろうし、涙が流れるシーンも異なるであろう。

私は、娘の立場で感情移入してしまったため、『認知症』発症から2年後、すっかり父親の認知状態が変わってしまい、デイサービスに通う姿に涙してしまった。そういう意味では、観た人が、様々な立場で、個々に考えるきっかけになる映画であろう。さらには、家族で死の迎え方について改めて話し合うきっかけにもなり得る映画になったと思う。

ただ、映画ファンの視点で作品をレビューすると、多少の物足りなさが残ったのも正直な感想だ。中野量太監督のインディーズ作品『チチを撮りに』の衝撃と比べると、やはり多少の物足りなさがある。

どうしても優等生的な描き方になっており、グサグサ刺さるほどのえぐり方は、ほとんど見られなかったという点が、そう感じたポイントであろう。映画づくりの様々な事情も含め、今回、監督が描きたかったものがそうだったのだろうが、はやり、直視できない現実があってこその理想だと思うため、どうしても物足りなさを感じてしまうのである。(これは個人的な感想)

冒頭で書いたとおり、生まれ落ちる家族は選べない。
しかし、自分が新たに作る家族は、いかようにでも形を作ることができる。そんな希望を見出すことができる作品であった事は、非常に素晴らしいメッセージであったかもしれない。

家族が誕生し、家族が熟成する。そして、『死』というエンディングと共に家族が無くなっていく。

いわば、この地球上で生きている私達の最小単位である家族は、長い時間をかけて新陳代謝しているのである。人間社会は、小さな家族が集まり、重なり合って呼吸するような生きた社会だ。温かく幸せな生命体にするもしないも、私達人間が、家族をどう作っていくかに委ねられている。
YokoGoto

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