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Electra,My Love(英題)
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『Electra,My Love(英題)』に投稿された感想・評価

sonozy

sonozyの感想・評価

4.5
1974年ハンガリー映画。
ギリシャ神話の女性エレクトラを再解釈した(1956年以降の、ソ連支配下にあったハンガリーの社会環境に適応させた)1968年初演の戯曲が原作だそう。

ブルーのワンピースのエレクトラ。
エレクトラの分身のような女性。
15年前にエレクトラの父アガメムノンを殺害したスキンヘッドの暴君アイギストス。
アイギストスの従者のイケメン。
やがて現れるエレクトラの弟オレステス。

広大な大地で、エレクトラが語り続ける中、メインのキャストと共に多数の民衆や馬が動き続ける世界。
馬に乗る男たち、子供、小人、手をつなぎ踊り続ける人々、ムチを打つ男たち、全裸の女たち、ギターで弾き語る男….

歩き続けるエレクトラ、キャスト、民衆や馬たちを長回しで追い続けるカメラ(約70分の作品が12のテイクで構成されているようです)。

その流動的なカメラで、広大な大地で行われているスケール感のある演劇/神話世界を体験しているような感覚。

ストーリーの詳細は理解できなくとも、パフォーマンスアート的な要素も含め、素晴らしい映像体験でした。
[革命、その名が祝福されんことを] 100点

プラハの春の惨劇を間近で見て以降、東欧の映画作家たちはその傷を抱えたまま映画製作に励んでいた。中でも大きく作品の方向性を変えたのがヤンチョー・ミクローシュである。彼の1969年以降の作品では、その特徴であった長回しという要素だけが骨格として残り、より抽象的でアレゴリックな方向へと傾倒していくようになる。極端な長回しで巡るのは、大量のエキストラを注ぎ込んだ人間ピタゴラスイッチとも言える"人間の背景"であり、カメラは視点人物に寄ったり離れたりを繰り返しながら、圧倒的情報量を誇る平原を練り歩いていく。ミニマルすぎて、霧の平原を駆ける騎馬隊が石造りの廃墟に近付く冒頭1分で、この映画の舞台紹介は完結してしまう。様々な人々が入り乱れる長回しは、『8 1/2』のラストが永遠に続くかのような、時間を超越したドリームライクな感覚を共有していくのだ。ずっと昼間である『ミッドサマー』は本作品を大いに参考にしたことだろう。なにせ大量にいるエキストラは全員エレクトラの敵なのだから。

本作品はアイスキュロス『オレステイア』三部作を元に、父親アガメムノンを母親クリュタイムネーストラーとその愛人アイギストスによって殺されたエレクトラの苦しみと、プラハの春以降の世界に暮らすハンガリー人引いては東欧の人間の苦しみを重ね合わせている。アガメムノンの死から15年経った今、エレクトラは"覚えている者がいる限り、忘れられることなどない"と呟いて、混沌とした世界を歩き続ける。エレクトラに好奇の目を向けながら距離をおいて広がる人々は、手を繋いで飛び跳ねることで彼らが連帯していることを示し、鳴り響くムチを打ち付ける音は銃声のようにこだまする。そして、"私を殺しても、私はエレクトラであり続ける"とか"お前が踊っているのは死んだ王の骸の上だ、それを知らないかのように振る舞っている"とか"お前を殺しても無駄だ、殺すべきはシステムだ"などエレクトラの発言はアレゴリックどころかド直球な政権批判、政権シンパ批判へと繋がっていく。

映画は政府の悪辣なプロパガンダのパロディまで展開してみせる。殺されたアガメムノンはクソだった、妻のクリュタイムネーストラーはその一番の被害者だった、三人の子供たちのうち長女のエレクトラは狂人で、クリューソテミスは我々とともに幸せな人生を歩み云々。独立記念日のように扱われる前王アガメムノンの死が祝祭と化している中、行方不明になった弟オレステレスについての発言を二転三転させるアイギストスを前に、"真実を語れ"と強要されるダブルスタンダードぶりにも強烈な皮肉が込められている。逮捕されたエレクトラが民衆に"目覚めるべきだ"と説きながら人海を歩くと、近くに居た人間は耳を塞いでエレクトラの言葉を遮ってしまう。映画は終始こんな調子でエレクトラとアイギストス(とその従者)による絶望的な戦いが展開していく。本当の悪は為政者一人に負わされるものではなく、それを製造してしまうシステムであり、それを作る人民なのだ。

デレク・ジャーマンのように、このギリシア悲劇の中にブーツや拳銃やヘリコプターなどの現代的なアイテムが登場し、幾度となくカメラに向かってトゥルーチク・マリ様の鋭い目線を投げかけるショットで現実との奇妙な橋渡しを完成させる。そして、アイギストスを殺すことをだけを目的としない物語は文字通り物語を天に上げることで一般化され、東欧世界のみならず、時代すら超越した抵抗の物語として語られるのだ。あまりにも素晴らしい幕切れ。
CHEBUNBUN

CHEBUNBUNの感想・評価

5.0
【ミッドサマーのルーツか?開放と閉塞、その抑圧と爆発】
新型コロナウイルスのせいで次々と新作公開が延期となり、その影響かシネコンの大スクリーンを『ミッドサマー』が支配する世界線の2020年。その影響か、今やそこまで映画を観ない人の会話でも『ミッドサマー』観た?と出てくる程ポピュラーな作品となりました。2時間半にも及ぶホラー映画マニア、胸糞映画の新鋭が作った作品が人気になるとは凄い時代になったなぁと思う次第であります。

さて、ブンブンの界隈ではチラホラ、「『ミッドサマー』のルーツはヤンチョー・ミクローシュにある説」が流布されている。ヤンチョー・ミクローシュ監督は日本ではあまり馴染みの無い監督且つ、ブンブンも『死ぬまでに観たい映画1001本』の『Még kér a nép』項目で見かけた程度の監督ですが、有識者曰く、タル・ベーラの長回しの原点で、儀式的描写がクセになるとのこと。実際に『ミッドサマー』はスウェーデンの話なのに、撮影はハンガリーのブダペストということもあり、東欧事情に詳しい映画ファンの脳裏にはヤンチョーの残像が見えるのだそう。

って訳で、ヤンチョー・ミクローシュ映画の中で短く面白く、『ミッドサマー』的要素があるという『Electra, My Love』を観てみました。

荒野を『羅生門』よろしく朽ち果てた建物の背後を無数の馬が駆け抜ける。太陽光が靄に反射に、そこに土埃が重なることで幻想的な空間が画面を覆い尽くす。そして、Eエレクトラへカメラが近づいてくる。ガヤから「忘れなさい」と言われる彼女。彼女が歩くと、白い服を来た人が、回転し始める。横たわる人の隙間を歩くと、人の手が彼女を掴もうとする。そしてピタゴラスイッチのように、歯車と化した人や馬の狭間を歩みながら彼女は暴君アイギストスを倒そうと復讐に燃えるのだ。

本作は《儀式》を冷静に捉えている。映画の中の儀式と言えば、騒々しく感情を揺さぶるイメージがあるが、本作では情報過多なまでに人の動きを取り入れつつ、徹底して儀式は静寂を保っている。しかしながら、本作は紛れもなく《儀式》を描いている。儀式とは、複数人が一つの方向に動くことで非日常を生み出す行為だ。それによる一体感は、どこか開放感を生むが、行動を制限されているため、閉塞感も共存している。その空間の中で、儀式を行いながら復讐劇を描くとどうなるのか?

復讐とは、抑圧されているものに爆発をぶつけるものだ。つまり閉塞から開放へ向かっていく行動である。開放の行動に見えて閉塞している儀式と合わせ鏡になるように閉塞から開放へ向かう復讐劇を閉じ込めることで、本作は見掛け倒しに思えて実は強固な構図を持った作品であることが分かるのです。

そして、長回しという特徴もその構図に説得力を持たせている。長回しが持つ自由さ=開放感の中でマスゲームの様な感情を失った人間の行動を捉えることで、この長回しですら機械的にコントロールされている、つまり閉ざされた世界側の存在であることを気づかせ圧倒されてしまうのだ。

そういった理論抜きにしても、この世のものとは思えない動きの中で強引に物語ろうとするパワープレイに驚愕させられます。

日本におけるヤンチョー映画群の中ではどうやらマイナーな部類らしいが、『ミッドサマー』が流行っている今だからこそ観た方が良い作品でした。