うえびん

アマンダと僕のうえびんのレビュー・感想・評価

アマンダと僕(2018年製作の映画)
4.2
心の傷を癒すとは?

フランス各地の街並みや風景の美しさに見惚れていたら、急にシリアスな場面展開になってびっくり。そこからは、繊細で丁寧な人物描写に魅入られていった。

物語の所々に出てくる自転車で走る場面が心に残った。冒頭でダヴィッドと姉が並走するパリの街並み。事件後、夜の街を走るダヴィッドの背にしがみつくアマンダの姿、翌朝、寝坊して学校まで駆ける二人。ロンドンの川沿いの道を、それぞれの自転車で追い越し追い越されを繰り返す二人。公園の木に立てかけられた2台の自転車...

人々が日常的な心の癒しを求めて集う”公園”が、凄惨な事件の現場になってしまって、警官のボディチェックが入ったり、異民族間の諍いが生じたりする場面には、やりきれない思いがした。

アマンダが、冒頭から「なぜ?」「なぜ?」と周りの大人たちに質問を繰り返すのも印象に残った。途中からは、彼女にとっての一番大きな問い(不慮の事故による母の死)が、「なぜ?」と発せられないことが心に痛かった。

この作品の前に観た『ぐるりのこと』の感想にこんなことを書いた。人が生きる苦しみについて、”他者が介入できる余地はほとんど無いんだけれど、人間には他者のそれを想像する力が与えられている。そこに希望はあるんだと。”

この作品でも同じようなことを感じ考えさせられた。ダヴィッドがアマンダを育てようと決意する過程では、彼女の苦しみ(哀しみ)を一番想像できるのは誰か?という自問自答の繰り返しがあったんじゃないだろうか。そして、最終的に自分だという答えを見出したんだろう。また、ダヴィッド自身の苦しみを癒すために、お互いの苦しみを想像し合えるギブアンドテイクの関係を築ける相手としてレナを選んだんだろう。ダヴィッド、レナ、アマンダ、3人は共に過ごす長い時間を経て、それぞれの苦しみを癒しあってゆくのだろう。その先には、ダヴィッドがアリソン(母)の苦しみを想像し許す時期が来るんだろうな。そんなことを想像した。

予備情報を持たないで観たので、想像してた内容をいい意味で裏切られて、とても良かった。エンドロールを見て、原題の”AMANDA”よりも邦題の”アマンダと僕”の方が断然いいと思った。
うえびん

うえびん