ルサチマ

やす焦がしのルサチマのレビュー・感想・評価

やす焦がし(2017年製作の映画)
3.5
過去鑑賞。堀禎一の遺作『夏の娘たち』以来佐伯美波の出演作は観なければと追いかけているし、そして未だ彼女のデビューの鮮明さを忘れることなど出来そうもない。

そしてもう一人この映画の主演を務める鈴木睦海。この俳優も決して出演作が多いというわけでも、ましてやメジャーな作品に出ているという訳ではないが、今時珍しくただの立ち姿で美しさを漂わせられる上品さがある。

劇場で再演される度にそれなりに駆けつけて観ている小田尚稔の演劇『是でいいのだ』においても、彼女の身振りには感動を誘う気品さがあった。

震災から10年という今年もまた「3月のあの日」に合わせて三鷹SCHOOLで再演がなされた。

小田尚稔の演劇は芝居の経験者と素人の芝居の調和がとても上手い具合に取れていて、演劇嫌いの自分でさえ見る度に発見を与えてくれる。岸田賞は「ノーゲッツ」だったものの、この劇作家は上演があると聞きつければ、とりあえずは駆けつけて観なければならない才能だ。

限られた空間の中で、声の発声と身体によって空間を立ち上げなければならないという負担を担わされた俳優たちが、まるで嘘のように見苦しさを廃してその場に立って見せるとき、演劇的というよりもむしろ映画的に近いようにさえ感じる空間の存在を観客は(というか俺は)察知する。

それは小田尚俊の戯曲は固有名詞の多さによって空間認識の輪郭を与えてくれるからということも関係はしているだろうが、そういうのは俺よりも演劇詳しい方の方が饒舌に語ってくれるだろうし、あくまでこのレビューでは声の音声と身振りについての素晴らしさを備忘録として書く程度に留める。

そもそも演劇用語で頻繁に使われる俳優の身体性というものの実態をよく分かっていないし、一般的に解説で聞くような身体という言葉について、その身体性を丁寧に汲み取った言葉自体あまり聞いたことがないので、どこかで軽々しく「身体」という言葉を理解してる風な者たちがとりあえず「身体が〜」などと言ってる印象さえある(俺が不勉強なだけかもしれないが)。身体という言葉を聞くたびにウンザリし、「だからそれはなんなんだ」とか「身体性を誇張する/廃するスタイルに留まってるだけだろ」と思ってしまうが、『是でいいのだ』については、堂々と俳優の身体が素晴らしいのだと言うことを大いに肯定したい。

それは最初に書いた、演劇的というよりも映画的と言いたくなるような具体的な空間が立ち上がる瞬間を目の当たりにするような感覚を俳優たちの身体と声が与えてくれることに由来する。

『是でいいのだ』の男性/女性では中盤まで、身体の動かし方に明らかな差があるように見える。

最初、リクルートスーツの女性は地面に対し一直線に立つし、鈴木睦海演じる旦那と別居した女性もマクドナルドで離婚届を書き上げる窮屈さからか、大きな動きは制限されている。本屋で働いているという女性もまた、歩幅を大きくして歩いているが、そこに見られるのは外国人みたいに見える風貌の(鈴木睦海と喧嘩した旦那を演じる)男性のありとあらゆる東京の都市を広々と、そしてさっさと歩き回る様子とは全く違う。書店員の女性はむしろ、これから歩く地面をしっかりと確認するかのような重さがある。

このような女性たちの地面と繋がっているような身体を仮に下半身の身振りとするなら、それに対する男性俳優の動きはというと、三者それぞれがまるで奇妙なことだが、下半身よりも先に上半身から身体が動き出すような、少し過剰なほど饒舌な上半身の身振りを与えられているように見える。

この演劇が当然「3月のあの日」の東日本大震災を想定した物語であることは自明のことだが、まずはこの男性/女性の身振りの違いが説話的にも地震に対する意識の差を示していることに触れる必要がある。

女性たちは皆、それぞれが重たい足取りで今にも崩れそうな地面から離れまいとするように、それぞれの境遇もまた「就活」「離婚」「転職」という人生の岐路で己の立ち位置をどう動かすべきか慎重に考えているようだ。

対する男性たちの上半身はまるで地震など無かったかのように、奔放に動き回る。事実、説話的にも細井くんという青年は地震の最中に眠りこけて、地震があったことさえ知らないし、離婚協議中の旦那も妻の安否を確認するというよりも個人的な思いだけで連絡を取ろうとする。昆虫博士にいたるまで、この男性たちは地震などまるでないかのような身振りで、説話的に読み取っても全く緊張感がない。

もちろん小田尚稔とその演劇に出演する聡明な俳優たちは、男性/女性で簡単な二項対立の主題を語る訳はなく、後半に差し掛かるとそれぞれの俳優は男性/女性など関係なしに個としての身体を、そしてその身体から導かれる身振りを、発声を手に入れる。

それは舞台休憩明けの舞台後半に訪れる細井くんと鈴木睦海演じる人妻の六本木デートシーンの展望台で明らかとなるのだが、まずは細井によるナレーションで展望台で外の景色を見る人妻の姿を見て「女の人って可愛いなぁと月並みなことを思った。でも、強風に吹かれて髪の毛が口の中にいっぱい入ってたけど」という映画的クロースアップの人物描写がなされる。

このとき、人妻は劇場空間において観客から最も遠い舞台奥で観客に背を向けているため、細井が語る細かな風に髪が靡くという顔を見ることはできない(そもそも風など吹くことさえない)が、すでに1時間以上舞台に立つ役者たちを見つめてきた眼差しと我々の思考はその「月並みな」細井のナレーションで、まるで間近で人妻の表情を見つめている気持ちになるのは、俺だけだろうか?

個人的な印象を抜きにして、身体と身振り、そして発声に目を向け直す。
この展望台のシーンで最も感動的なのは観客に背を向けていた人妻がまるで、序盤の制御された上半身から解放されたかのように、いとも簡単に細井の方(観客側)を振り向く瞬間だ。

地面の揺れにしがみつくような重さはそこにはなく、すべての揺れに身体を委ねるかのような上半身の身振りへと転じ、男性/女性という二項対立などもあっさり超える個の身体を見よ。観客から最も遠い舞台の奥で、最も劇的な変化が起きた時、我々は舞台というロングショットの空間全体が変容した瞬間を察知する。

そしてこの振り向く身振りの直後「この後どうする?私コーヒーとか飲みたいな」とごく自然な様子で細井を誘惑する身振りと発声の連携は、クライマックスで再びこの身振りが演じられるのではないかと予感させる。

そして事実、この舞台でクライマックスを迎える細井と人妻の別れのシーンで再度繰り返し、振り向くことの意味が別れへと転じるからこそ、ここで鈴木睦海が獲得した個の上半身の身振りはひとつの意味にとらわれることなく自由に開かれている意味で感動的だ。そしてその身振りを引き出す細井の発声もまた、演劇的ロングショットの空間にしっかりとした、クロースアップで捉えたような音声として真っ直ぐ(今度は観客の方向へ身体を向けて)発声している。

クロースアップ的な音声というのは何も雰囲気として言っているのではない。舞台の位置関係的に観客は細井と人妻のどちらか一方へとしか視線を向けることはできず、クロースアップ的な視線と聴覚の固定を仕向けられてしまうからこそ、これは意図された演劇的クロースアップの採用だと考えて問題ないだろう。

展望台に見立てられた劇場の奥から、六本木交差点を見立てた舞台全体へ。近さから遠さ、遠さから近さへ、視覚と聴覚の運動の連携によって生まれる変容こそが、重要だ。

駆け足で『是でいいのだ』のクライマックスへと急いでしまったが、当然このクライマックスへ至るまでに男性の身体もまた変容していることを最後に触れておく。

例えば、身長の高い外国人的な見た目の旦那は、久しぶりに再会した妻とヨリを戻すときに窮屈な相合傘で家へと帰るのだが、この時の傘が感動的であるのは、傘というフレームの中に一緒に入ることが、家庭へと収まる未来を比喩的に描いているからなどではない。

あれほど上半身をくねくね動かしていた背の高い旦那が、自分よりも背の低い妻が差し出した傘によって上半身の運動を制限されること。そしてその制限を自ら進んで肯定するかのように傘へと向かうことが感動的だったし、クリスマスに細井が六本木へと向かう電車の中で吊革を手に、まっすぐ地面に対して垂直に立つこともまた変容の予兆として舞台空間に緊張を与える。既にこの段階では人妻は旦那とヨリを戻しているが故に、2人の関係はもう行き止まりになることを観客は「知っているにもかかわらず」だ。

あれほど、細井の腑抜けた上半身の動きを舞台前半で見ていた観客ならば、クリスマスの満員電車に揺られながら六本木へ向かうという細井の状況が説明されたとき、

まるでマヂカルラブリーのM1決勝漫才のように電車の中で右往左往に暴れてしまうのではないかとヒヤヒヤしても不思議じゃないのに、細井はただ吊革を手に取りまっすぐ立つ。

観客の心配は稀有に終わると共に、細井が地面に足をつけて移動したことそのものに大人としての自覚を見つめる。

そしてその瞬間、ただ情報として説明されていた地理の固有名詞など最早意味もなくなり、ただ今・ここにいる人々の空間がどれだけの奇跡によって成立していたものかを知るだろう。

身体は変容し、地もまた変容する。

『是でいいのだ』はあらゆる肯定によって成り立つ舞台であり、そしてそれは何度でも再演されることを肯定するだろうし、その度に演じられる身体が変容し、そして語られるべき身振りと発声が変容することも肯定されなければならない。

あらゆる人の目に対して抵抗するような俳優たちの緊張を伴った歪な身体をただ心待ちにする。
ルサチマ

ルサチマ