YasujiOshiba

ウエスト・サイド・ストーリーのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

-
密林レンタル。23-22。今宵はなぎちゃんと。スピルバーグは、ときどき妙に明るいアメリカのお伽話を見せてくれる。ただそこには必ずデモーニッシュなものを忍び込ませて来る。

たとえば『1941』(1979)がそうだ。大好きな一本だけど、物語の背景に「ズート・スーツ暴動」(1943)がある。戦争中の1943年、メキシコ系の住民の派手な衣装「ズート・スーツ」がけしからんと言って、白人市民たちが暴行を加えたと人種差別暴動のこと。その派手なスーツはダンスのためのもので、そういう背景あってのダンスシーンが、一見すると能天気なのだけど、ヤバさを潜めているところが実によかった。

そんなスピルバーグだから、『ウエスト・サイド物語』(1961)をリメイクするのは当然の気もする。ミュージカルだけどデモーニッシュなものがあるからだ。なにしろ原作はシェークスピアの『ロミオとジュリエット』。イタリアはヴェローナ。恋に落ちた主人公は、それぞれの家がお互いに憎しみ合っているという設定。それを1957年のニューヨークのウエストサイドに移し、家の対立ではなく、人種の異なるギャング団の対立としてミュージカルにしたもの。

フレッド・アステアやジーン・ケリーのミュージカルはコメディだけれども、『ウエスト・サイド物語』は悲劇なのだ。毒がある。その毒をオブラートに包みながら、ぼくたちの口のなかに放り込もうというのが、このミュージカルの後味の悪さ。同時に忘れ難さ。だから記憶に残る。

スピルバーグ演出は、音楽はそのままだけれど、後味の悪さの作り方がうまい。たとえば冒頭の廃墟のシーン。ダンスシーンにしてもストリートでのステップの多さが目立つ。閉鎖空間ではなくて、オープンな空間でのステップには、どうしてもヤバさがある。

それからなんといっても拳銃。1961年版にも拳銃は出てくるのだけれど、少し唐突なところがある。しかしスピルバーグ版は、この銃の仕込みがうまい。「クレージー・ボーイ」の歌なんて、銃を使うなんてバカなことはやめろという歌になっているではないか。

だからラストシーンが生きる。チェーホフが言うように、「登場した銃は発砲されなければならない」のだ。そして思いがけないところで、思いがけない人が死ぬ。その思いがけなさが、対立を超えた葬送として立ち上がるとき、今のぼくたちが思うことはただひとつ。殺し合いはもうたくさんだ。

しかし人は銃を欲し、手にすると撃ちたくなり、撃てば破滅に追い込まれてゆく。それがぼくらの狂気なのだとすれば、ぼくらはなんどでもこの悲劇を反復し、歌い継いでゆかなければならない。いつの日か、何を歌っているのか意味がわからなくなるときまで。
YasujiOshiba

YasujiOshiba