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キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのambiorixのレビュー・感想・評価

4.0
マーティン・スコセッシが1988年に撮った『最後の誘惑』という作品があります。ゴルゴタの丘の十字架から逃げ出し、マグダラのマリアとSEXしたイエス・キリストがたくさんの子供を産み育て、天寿をまっとうしようとする映画なのですが、そのあまりにも人間くさくて弱っちいキリスト像に対してキリスト教原理主義者(今風にいうと原作厨)たちが烈火のごとくにブチ切れ、世界中で上映禁止運動が巻き起こったり映画館に火が放たれるなどして当時たいへんな物議を醸したそうです。仏教徒の俺なんかは「そんなもん数多ある解釈のひとつとして受け流しておけばいいじゃあないのサ」と思ってしまうのだけれど、ファンダメンタルな原作厨にとってはどうしても受け入れがたいものがあったらしい。俺自身マンガや小説をほとんど読まない人間なので、映像化された作品に原作厨が当たり散らかすメカニズムというのがいまいち理解できておらなかったんだけど、本作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』に関しては、珍しく原作のノンフィクションの方を先に読んでしまったので、思うところがいっぱいあるんですよね。要するに何が言いたいのかというと、映画版からは原作を読んでいて興味深いなと思ったところ、散りばめられた情報の数々がパズルのピースのように収斂していくダイナミズムや、オセージ・ネイション全体を覆う殺人システムの恐ろしさ(後述します)、といったものがほとんどスポイルされていて、そのことが非常に残念だったわけです。
しかし、なにも俺は「原作を忠実に再現しなかったからこの映画はクソだ」と言っているわけではない。アメリカ史の汚点のひとつであるオセージ族連続殺人事件を独自の視点で再構築し、堂々たる映像作品に仕上げたという点において、起こった事件の単なる再現ドラマでしかなかったこの前の『福田村事件』よりもはるかに志の高い企画ではあると思うのです。ちなみに原作の方はざっくり三部構成になっていて、一部でオセージ・インディアンの周辺状況と相次いで起こる殺人事件とをおもに先住民サイドに寄り添った視点で描き、二部ではトム・ホワイトをはじめとする連邦捜査官が犯人たちを追い詰めていく模様を描き、最後の三部で現在(2012〜2015年ぐらい)の時制から原作者のデイヴィッド・グランみずからが各地で資料や証言を集めて歴史から葬り去られた事件の空白を埋めようと試みる、というような流れをとっています。ところが映画版の本作では、原作にあった視点のいずれもを採用しておらず、単なる小悪党のひとりに過ぎないアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)を主人公に設定しています。今回の感想文の中で何度この言葉を口にするかわかりませんが、この目の付け所はきわめて「スコセッシっぽい」ですよね。先住民を搾取する白人でもなく、搾取される先住民でもなく、その両極の間で板挟みになってしまったどっち付かずの人間を主人公に据えているわけです。この「板挟みになった主人公」というモチーフはスコセッシ作品の中に何度も何度も形を変えて出てきます。マフィアのボスと組織に迷惑をかけまくる友達との間で身動きがとれなくなる『ミーン・ストリート』のチャーリー、パートナーであり友達でもあるジミー・ホッファを殺せと命じられる『アイリッシュマン』のフランク、などなど挙げていけばキリがありません。アカデミー賞の監督賞をはじめて受賞した『ディパーテッド』にいたっては二重の板挟みを描いた映画です。おまけに、物語を俯瞰で語るのではなく、騒動の渦中にキャメラをポーンと放り込み、至近距離から事件を活写していく当事者的な語り口というのもスコセッシっぽいなと思いました(神話的な『ゴッドファーザー』へのカウンターとして市井のチンピラを描いた『グッドフェローズ』がその典型)。
舞台は1920年代のアメリカ。先住民のひとつであるオセージ族は、もともと住んでいた土地を追い出され、でこぼこして耕作には向かないオクラホマ州北東部の一帯に移り住む。ところがある日、不毛だったはずの土地から大量の石油が出るようになる。なんやかんやあった結果、オセージ族は世界でもっとも裕福な種族の仲間入りを果たします。アメリカ人の7人に1人しか車を持てなかった時代に1人あたり7台の車を所有していたというんですから驚きです。するてえと、今度は自分たちを追い出したはずの白人が居留地にゾロゾロやってきて先住民のもつお金をかすめ取ろうとする。このやり口は映画ではサラッとしか描かれないのですが、非常に巧妙でかつ人種差別的。「連中は自分で自分の面倒を見ることができない無能力者である」というレッテルを先住民に貼ることによって、白人が彼らの後見人となり、財産を好き放題横領したり死後に遺産を着服するなどすることができるわけです。本作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、白人が先住民に対して持つ「ナチュラルな差別意識」を抜きに語ることはできません。そして、「やつらはおれたちよりもはるかに劣る無能揃いなんだから、こんなにたくさんの金を持っていても仕方ないだろう」みたいな認識が頂点に達した結果、痛ましい連続殺人事件が起こってしまう。
この映画がユニークなのは、まず事件が起きて、それを探偵や刑事が捜査する、といういわゆる王道のノワールやサスペンス的な構成を取っておらないところ。もちろん、おなじみの「2サスの犯人が俳優の格でバレてしまうジレンマ」があるので、どうせアイツが犯人なんだろうな、と思いながら観客は本編を見るわけですが、スコセッシはその先入観を逆手にとってくる。黒幕のデ・ニーロが悪事を企むさまを序盤から見せちゃうし、下手人がみずから手を下す光景なんかもバンバン映しちゃう。なのでこれ、要するに今までスコセッシが撮ってきたマフィア映画まんまなのですが、だからこそというべきか非常に面白い。206分という、すさまじく長いランタイムをトレードマークの歯切れのよい演出でもって飽きさせることなくポンポンと一気に見せてしまう。もちろんスコセッシ組の最古参であるセルマ・スクーンメイカーの天才的な編集技術に依るところも大きいのでしょうが、やっぱりスコセッシ、映画撮るのウマいよね。
映画は最終的にディカプリオ演じるアーネストの内面へと沈潜してゆく。しかし、ここで冒頭の「原作の面白さがスポイルされてしまったよ問題」へと立ち返ってしまいます。オセージ・ヒルズの圧倒的な支配者であるおじヘイルの磁場に絡め取られた悪の自分と、妻のモリーや小さな子供たちを愛する善の自分。アーネストはこの両極のはざまでもがき苦しみ葛藤するわけですが、これは「スコセッシっぽさ」の最たるものでもあるし、根っこにはクリスチャン特有の自罰意識のようなものがある。妻モリーに打っていた毒物を自分で飲んでみたり、百日咳が悪化したリトル・アナの死をすべて自分の責任だと感じてしまうあたりなんかもろですよね。そして本編のほぼラストシーン、妻のことを心の底から愛していたはずのアーネストは「自分が彼女を殺そうとしたこと」という最大の秘密をどうしても打ち明けることができない。どれだけ懺悔を重ねたところで決して取り去ることのできない「原罪」です。だからなんだろうな、愛や差別意識やカネに対する欲得、などといった作中で提示された普遍的なもろもろのトピックを視野の狭いキリスト教的な世界観の中に回収してしまうやり方に俺は違和感を覚えたのかもしれない。ともすれば問題を矮小化してしまっているように見えたのかもしれない。結局語りたかったのはこんなしょうもないことだったのか?
余談ですが、先述したように、原作の第三部では原作者みずからがオセージ・ネーションにおもむき、事件当事者の親族から話を聞いたり当時の資料を集めたりして、解決されなかった事件のいくつかになんとか光を当てようとします。そこで、モリーの姉アナと同時期に死んだホワイトホーン殺害犯の犯人が実はヘイルとは別のラインの人物だった、という驚愕の事実が判明します。さらに、オセージ族連続殺人事件が始まるはるか前や事件の解決後(ヘイルの収監後)にも先住民の不審死が相次いでいたこともわかる。つまり、ヘイルだけがとびきりの異常者なのではなく、あの一帯に住む白人のほとんどがヘイルと似たような考えを持つ人間だったことになるわけです。それどころか、ヘイルひとりを人身御供にすることで罪を逃れたやつらが当時その辺にウジャウジャいたわけで、これ、めちゃくちゃ怖くないですか? まるでジャニー喜多川の死体を盾にしてまんまと逃げ切った旧ジャニーズ経営陣やマスコミのようではないですか(笑)。原作のこの部分は後味が悪いながらも非常にスリリングで面白いので、映画を見て気になった方はぜひ読んでみてください。
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