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キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

 今ガザの攻撃に対してイスラエル内で、一部だがガザの負傷した人らの傷をメイクで真似してバカにする映像が流行っている。この後に及んでそのレベルの揶揄が存在するのかと呆れるが、これが実情なのだ。そしてその軽薄な潮流に踊らされ流される点で、今作の主人公はその典型なのだ。世の中がバックボーンを失いつつある中で紡がなければいけない話として、この題材はまさに今こそ必要なものであると思った。

 凡庸な悪として今作の白人らは在る。犯行に至るまでを回想する者が言う「殺せと言われたが、そのうち仲が良くなってな」。しかしこう続ける「いつまでも踏ん切りがつかなかったがなんとかやった」。情もクソもない、そのかわり強烈な悪意でもない殺人。これ、アメリカこそ我が国と言わんばかりの白人たちは足元に刈り技キメられたに違いない(スコセッシもキメにいってる笑)。呆れて何も言えなくなる(実際、オセージ族のモリーが主人公を無言のうちに見放すように)ことを威張って誇れるわけがない。いいなぁ、自国の葬り去られつつある物語を紡げる監督がアメリカにはいて。劇中で、事件を葬り去りたいキングvs流石に懲りたアーネストの最後の会話でのやりとりでのキングの「こんなことは単なる悲劇として忘れ去られる」という言葉は、あらゆる悪の思うことであろう。しかし、それがこうしてまさに語られたことで忘られることはないのだ。見たか巨悪よ、あんたらはスコセッシに身ぐるみ剥がされたんだ!となんか感動した。

 これでもビビるのが、特に主人公アーネストに顕著なのだが、本当に金が好きとは思えないのだ。アーネストは「金と女には弱くてねぇ」みたいなこと言うが、実際劇中で女遊びもしないし、金で買ったのは車くらいか。ビックリするほどの空虚な動機しかここには無い。「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」で感じた、結局こいつ空っぽや…というのが今作のアーネストにも言える。というか、空虚な人物が行った犯罪がだんだん追い詰められていくという展開は「ウルフ〜」とほぼ同じだ。今作ではアーネストは”コヨーテ”と言われてるのが、より対になって考えられるんじゃないかなと。ただ「ウルフ〜」では捕まる主人公にどこか逃げ果せてくれと思ったのだが、今作のこいつにはむしろ「はよ捕ってくれ」が強かった。

 思想の欠如の問題。カトリックと言っていたアーネストは、教会の礼拝の仕方を知らなかった。それ以外もまぁなんもわかってないんだけども。突如起こった喧嘩に、野次としてからんだり、レースがあると賭けてもないのにわけもわからず熱狂する。そんな風に雲行きが怪しいと思えば、金と女をキングに持ちかけられてズブズブに。悪い父を継承してしまうというスコセッシ映画の典型と見えたが、実のところアーネストは何も考えていない。あのポスターに大写しにされたディカプリオの眉間と顎の突き出しにさも深刻さが見えたが、あれは「なんかよくわかんない」の表情だったのだ!そのせいかずっとモブ感が強いディカプリオで面白かった。娘の死を「あいつらがやったんだ!」と言ったアーネストも、結局その”あいつら”が何かわかっていないと思われる(キングがここで信心深いアピしてんのセコイ)。因果を知らない、その原因がわからない愚かさ。

 ちなみに、あのわかってない顔はされたこともあるししたこともある、社会人なら誰しも経験する顔なのではないかなと思った。そして、そんな経験のある社会人が最もアーネストに近しいのもこれまた事実なのかもしれない。一寸先のアーネスト、人ごとじゃない。

 今作の引き画の死(デッドパンフォトのよう)。カットを割らないのは技術力があがったとも言えるが、カットを割ることでテンポやアクションに殺人を従事させないという姿勢を感じる。これはカタルシスを避ける演出なのだ。今までのスコセッシが熱狂的に支持されてきたその殺人描写は抑制されている。これは確実に殺された事実のむごさそのままを伝えようとする誠意だと思う。ラストにまさかのスコセッシ監督自身の登場もあり、これもまた誠意の現れなんじゃないかなと思う(ウディ・アレンぽかった、さすがNYの監督同士)。会話はシンプルな切り返しのみで、その原因が招く結果としての殺人という対の構図が前編保たれる。そのせいで凡庸で少し嫌な会話も、”口は災いの元”として緊張感を帯びていく。そして観客である私たちがもしこの切り返しを集中して退屈せず観れたのなら、少なくともアーネストよりも物事により注意を払えた証になるのではないだろうか。ある意味で我々は既に”実践”したと言える。またエンドロールの嵐の近づく音の中、まさに沈黙する我々が、モリーならびにオセージの人々と同じ立場に置かれるのは見事だった。観客はまさに意識して沈黙を"実践"しているのだ。

 モリーの心境と「ラ・シオタ駅への列車の到着」と「工場の出口」を足して、そこに白人の到来の悪夢を覆わせるシーンがあった。映画史の始まり、西洋の到来のイメージをかぶせることで従来の映画史を覆そうとしてるきらいさえある(最近映画史見直しムーブがあって良い、「ノープ」とか「バビロン」とか)。しかし彼女は黙する。仏か何かかと思える崇高ささえあったが、これは決してマイノリティに黙す美徳を押し付けているわけではないのは確かである。それこそラストはオセージ族の人らの太鼓の音で締めくくられるわけで。この点、やはり白人のアーネストが赦される物語なんだなぁと思った。マイノリティの寛大さに、矮小になってく白人たち。

 ハエは何だったのか、嫌がるアーネストは「羅生門」の三船みたいだった。とか言ってる中で思うけど、やはりシネフィル的な機構やオマージュでの評価を今作は拒否してるように思えた。物語自体の重視。にしても、全然もっかい観れるなぁこれ。

P.S.
キングの計画自体、よく考えたら全然上手くなくて草。アーネストがさらに足引っ張ってるのもウケる。
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