KIYOKO

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのKIYOKOのレビュー・感想・評価

4.5
3時間26分と言う長さも、これだけのものを物語るのに、確かに必要な長さだった。

見終わった後にしばらく感想がまとめられない、簡単に消費できないこのもどかしさに、映画体験としての嬉しさを感じる。

どこまでも醜悪な拝金主義者の白人達の、身勝手な虐殺の歴史であり、知ることのなかった事実だっただろう。
「正義」とは何なのか。多様性を謳う現代における、白人の文化的侵略の歴史を描くということに意義を感じた。

時間をかけて、ジワジワと体に回っていく毒のように、モリーの家族が所持する受益権を得るためその家族を乗っ取っていくキング達(白人たち)の「侵略」の様子に恐怖を感じた。

主人公のアーネストは、有力者であり叔父のキングによって一種の洗脳状態にあり、キングの傀儡として指示通りにアーネストの妻・モリーの家族を殺していく。
(直接手を出さずに、チェスのように周りの駒を動かしていくキングがものすごく怖かったし、本当に権力のある人間の政治はこういうものなのだろうというリアリティもあった)

アーネストを主人公にしているから、一見、結局白人側から見た物語に思えなくもないが、さらにその根底にあるのがモリーの物語なので、彼女を通して「ネイティブ・アメリカン側から見た白人」という視点で語られている。
だからこの物語の中で語られている白人達については同情の余地がないし、脚本の初稿を書き上げた後に「白人が救世主になっている」と判断して今の脚本に修正した製作陣の判断は正しい。

アーネストはモリーに対して愛情が芽生え(たかのように自分で自分を洗脳していたのかもしれない)、キングとモリーの狭間で苦悩しつつも、自分がやっていることに対しての愚かさにすら抵抗できない、どこまでも愚かで、醜悪で、何者にもなれない弱い人間として描かれていた。
モリーに注射を打っているあたりからやたら出てくる「蝿」は、そう言った虫唾が走る醜悪な外道としてのアーネストを暗示する演出だったのだろう。

ミステリー的なスリルとは違い、殺人事件の犯人を知ってしまっているからこそ生まれてくる緊張感の高まりに痺れ、この結末を見届けなければという使命感すら湧いてくる。

この長時間だれることなく見れてしまうのは演出や脚本の力も大きいが、役者の素晴らしさによるところが大きい。

「動」的な芝居で映画の中に動きを与えて見せていくアーネスト役のディカプリオとキング役のデニーロ。
一方で「静」的な芝居でこちらの心を惹きつけていくモリー役のリリー・グラッドストーンのアンニュイな芝居によってディテールが積み上がっていき、この芝居のコントラストによって物語の意味がより明確になっていく、素晴らしい役者達だった。


自分はスコセッシが批判するマーベル映画も好きだが、スコセッシの映画も好きだ。

映画は娯楽として楽しめるのも良いけど、一方で事実を伝える、記録メディアとしての役割がある。

この作品は後者の方で、これを見てスコセッシの言っていた「伝えなければいけないと思った」という思いがよくわかった。

監督が自ら映画の中に出演して、「実録犯罪シアター」(的なラストのアレ。正しい名前かは覚えていない)で語ることでその意味が強調され、また「結局キングの予言した通りになってしまった」という、皮肉にもなってしまう強烈な演出だった。

大袈裟な言い方だけども、この映画を見たことによって、描かれていることを「知ってしまった責任」が伴うかもしれない。

それくらいに重たい映画だったけど、劇場で見て良かった。

これはリビングルームなどで見るよりかは、劇場で自分を縛り付けてみた方が良いものだった。
(『アイリッシュマン』をスマホで見て後悔したので、その経験が役に立った)
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