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Love(英題)
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『Love(英題)』に投稿された感想・評価

しんみりと心に沁み、様々な形の愛に就いて考えさせられる傑作である。
マック・カーロイ監督作品。
これまで知らなかったが、ハンガリーでは姓・名の順で書くとのこと。
以後、同国の人名に関してはこの表記に倣う。

内容に就いては考えが、纏まらない。
思いはあるが、余りに繊細で、語れば壊れそうなのである。
断定出来る程の、強さもない。

この為、本作に就いては鑑賞記録としての評点のみ点けることとする。
興味を持たれた方は、是非鑑賞し、考えて頂きたい作品である。
["純粋な愛"は逆境をも跳ね返す、或いはハンガリーの「グッバイ、レーニン!」] 100点

ハンガリー映画史上最も重要な作品の一つ。監督のマックはフサーリク・ゾルタンの師匠的存在でもあり、彼に「Szindbad」の製作を促したのもマックだった。本作品はヤンチョー「Silence and Cry」と「Electra,My Love」の間に急に老け込んだトゥルーチク・マリが間の期間に主演したハンガリーの「グッバイ、レーニン!」である。彼女のルツィナ・ヴィンニツカみたいな妖艶な目と枯れた猫みたいな声を楽しむ映画でもある。

主人公ルカは政治犯として逮捕された夫ヤノシュを待ちながら、彼の老いた母親には"ヤノシュはアメリカで映画監督をしている"と嘘をついている。寝たきりの老母がもう長くないのは知っているし、彼女がヤノシュの帰りを待ちわびているのも知っているが、アメリカからの手紙を偽造する以外に手段がない。ルカは中々帰ってこないヤノシュを想いつつ貶しつつ無力感の中で老母への愛情を展開していく。

サブリミナルのように識閾下に記憶の断片を送り込むことで老母或いはルカの体験を我々も追体験する。それは物忘れが多くなった老母がルカの助けを借りながら昔を思い出す過程であり、我々はルカの手を借りてハンガリー近代史及び現状をミクロな目線で見つめ直すことになる。この演出はフサーリクも使っていたのでハンガリー映画界の一つの潮流だったのかもしれない。サブリミナルで扱われる時間が徐々に直近の記憶になっていき、老母の記憶力の低下或いは走馬灯のように扱われるようになる。この過程は存外に早いものだが、それでも心を打つには十分である。

やがて、ルカは夫が政治犯であることから職を追われ、部屋も追い出される。しかし、老母の前では平静を装って何事もなかったかのように振る舞う。毎日花を買うお金も無くなってしまったので既に飾っていた花を抜いてもう一度持ってくるという芝居までやっているのだ。しかもその花は白いカーネーション、花言葉は"純粋な愛"である。芸が細かい。

老母がどんどん弱っていく中、ヤノシュが突然釈放される。背景にあるのは1950年代に政治犯が一斉逮捕され、60年代になって多くが釈放されたという事実である。原作者デリ・ティボルもハンガリー動乱(1956年)での投獄経験があったらしく、母親がドイツ系という設定もそのまま持ってきたらしい。
老母がインテリという設定も興味深い。ドイツ語や文学からの引用を使ってルカの嘘を見破っているのか騙されたままなのか、或いは見破った上でその都度忘れているのか分からないという"サスペンス"がこの映画を支配している。

大いなる愛の力は政治的な逆境をも跳ね返す。大半が老母の部屋で進む本作品は、ルカが老母につく嘘のように"本当は何も起こってないのではないか"と思わせる力すらある。しかし、現実にはヤノシュは老母の死に目に会えなかった。本作品におけるこのようなシニカルな目線が私の心を掴んで離さないのだ。
この映画がカンヌで公開され審査員賞を獲得してから50年経とうとしているが、そんなに経っても日本で公開の兆しがまるでないということはもう余程のことがない限り日本での上演は望み薄だろうけど、ちょっとそれが勿体なく感じられくらいの力作。

基本母と娘とかの会話で構成された演劇的な作風ながらも、ベルイマンやファスビンダーに匹敵する演出力と初期のゴダールやアラン・レネばりに大胆でキレのある(しかもそれでいて挑戦的要素も多分に含む)編集のおかげで終始見入ってしまい、尺の短さも相俟ってあっという間に終わったような心地だった。

画面に見入っていたせいで字幕を読めず会話の内容が一部しかわからなかったもののそれでも全く苦にならなかったし、やはり表現の優れた映画というのは物語を超越するものかとつくづく思い知る。

こんな驚異的作品でも日の目を見ることがないのも別段珍しいことではない日本の現状は残念極まりないが、万が一にでも生きている間に劇場で拝める日が来たら是非とも足を運びたい。