せいか

ザ・ライダーのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ザ・ライダー(2017年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

12/17、Amazonビデオにて動画レンタルをして視聴。字幕版。
現代西部劇。馬が観たい気分のときにレンタルしたものなので、内容などは一切考慮せず(というか商品ページのあらすじを読んだ程度)に観始めた。馬! というよりは、ロデオボーイである主人公とその周囲の人間ドラマなので、そこまで馬がうまうま画面に出てはいなかった。
冒頭の傷口を出すシーンがめちゃくちゃ痛々しい。


視聴間もなくからやけに主人公の妹の演技が棒なのが気になってはいたが、素人であるらしい。それどころか主人公一家+一部の友人などは、作品の舞台となっている、サウスダコタ州のパインリッジ・インディアンス保留地に実際に住まうラコタ族の人々だという。
そもそもこの物語が主人公を演じる本人のために脚本を書こうという前提で書かれたもので、つまり本作は彼らにある種、物語化した自分たちの人生を演じてもらっている構成となっているようだ(※ただしドキュメンタリーとかそういうのではなく、あくまで本人と地続きの要素がある物語という立ち位置)。それを思うと、特に主人公など、だいぶ「演技している」違和感が出ていないで物語化した自分の話の中にちゃんと自分自身を落とし込んでいるのですごい。
ただ、そうなると、結局、本人の物語なのかお話なのかの境界は曖昧なので、アメリカの片隅でその歴史を負いつつ貧しく逆境下にあった実際の生きた人間の人生を切り取って観る人にとって都合よく感動的なものにし、大衆映画化したものとも言える作品であるとも言えるものにもなってはいるというのは否定できないところではあるのだけれども、実際に自分たちを演じる彼らを通して、一人の人間を慰め、思い遣る姿が切り取られてこの映像としてその姿が刻まれていることに感慨深さを覚えるところはある。私たちは繋がっている。私もこんなひどい目に遭ったけれど、それでも馬に乗ることに戻ったんだ。おまえも元気になってくれ等々。
身体障害者となったレイン役を演じるのも実際のレインその人であり、彼は姓名共に本名のままこの映画作品の中に登場している(主人公一家は性を変更している)。劇中で主人公とレインはレインの身体が自由だった頃のビデオを共に鑑賞したり、まともに話せないし動けないレインと意志疎通をして軽口をたたき合ったりする姿が描かれていて、多分、この映画の中に「レイン・スコット」その人の今も含めて刻みたかったのだろうなあと思った。キャンプファイアーのシーンで女に対してサイテーなところがあったレインという人物について話し合っていたりも、そういう意図もあったのだと思う。きっと彼らは現実の世界でも映画のように一緒にこの作品を観て、作中で使われていた彼の思い出の記録を重ねているのだろう。なので、観ていてこのシーンがひときわ胸にくるところがあった。周囲の人物も含んだ現実に生きる一人の人間を物語として消費されてしまうのはあるにしても、同時に彼らも語り直しをすることで自らの血肉としているところがあるし、そこには自分たちの現実の友への愛ともいえるものが籠められているのではないかと思った。この点で本作、めちゃくちゃとんでもない、他人が干渉しようがない人間同士関係を突き付けるものにもなっていたと言えるのではないだろうか。他にもレインとの描写はあるのだが(ロデオを模したものに乗せたりなど)、本作の中心部分ってやはりこの二人が一緒にいるシーンに詰まっていると思う。
本作では主人公の夢(=馬)への執着、そこを切り離せないつらさが描かれているのだけれど、それはまさに物言えぬレインにも当てはまるもので、もはや満足に動けぬ、本当はもうどんなに頑張ったってどうにもならないことをレインを通して描き、主人公もレインもそれを目の当たりにするつらさが容赦ない。

ちなみに作品の前提として重要な箇所でもあるのだが、パインリッジ・インディアンス保留地はアメリカ国内でも再貧困地の一つとしてよく知られた場所で、就業、学業、生活、病、金銭的切迫などのあらゆる貧しさが蔓延ってっている場所である。そして彼らの生活は多分にアメリカ人の人々にとっては顧みられない。ラコタ族といえば、近年でももはや限界であると独立を訴える動きなどもしていた。つまりはアメリカのその歴史を引き摺って存在する、アメリカにとっての暗部を負わされている、その社会の中に取り込まれている人々なのである。
また、本作監督は他にもこの土地を題材とした映画作品をつくり、映画監督としてこの地と向かい合う姿勢のある人物である。主人公演じるブレイディと出会ったのも、別作品の撮影のときで、そこでそのまま彼自身に惹かれ、その脚本を書くことを決めたらしい。

物語のあらすじは、或る日のロデオで落馬して馬に頭を踏まれる大けがを負った主人公が、身体にも表れているその後遺症に苛まれ、また同時に日常のものでもある貧困にも責め苛まれながら生きるという話。

家庭の貧しさから可愛がっていた馬も自分の知らない所で手放すことになり、その馬との最後の別れのために乗馬するというちょうど中間に位置するシーンが、作中で主人公がまともに乗馬する最初のシーンともなる。彼は友人たちに励まされ、レインと共に過ごし、かつて兄弟分だった彼のほうが重篤な状態ながらもまだあきらめていない(はずだ)と信じ、さらには周囲の親しくない者たちからも再び馬と関わることを応援されたりもする(他人は他人の実情を考慮せずに無邪気に振る舞えるのである)。自分も馬を愛しているしそこと関わりたいというのはあるけれど、或る意味、狭い世界から抜けられないそのコミュニティに蔓延る呪いを感じる話でもあるような気がする。主人公が一度スーパーの店員になるくだりで職安的な所に面接に行くときもにじみ出るのは馬への執着と諦めと貧しさと自分の人生が追い詰められていることだったりする(また、主人公は馬の調教師の仕事も始めるようになる)。
暴れ馬と名高い馬を父親の買おうと思ってお金を掻き集めようとするも、これは結局父親が無理をする形で買うことになる。そして彼はこの第二の馬との絆を深めることにも成功し、ここに至ってはっきりとロデオを諦めたくない気持ちをはっきりと表明するようにもなる。だけどいよいよ発作が馬との付き合いを邪魔し、乗馬すらもドクターストップがかけられる。そして父親もはっきりと夢を諦めるように勧めるようになる。妹と父親の、一緒に支え合おう、私が話し相手になろう、でもそれ以外の道を行ってくれというのや、周囲の一歩引きつつの彼への応援とか、なんだか観ていて痛々しい。

しかもアポロは脚に負傷してもはや選手生命が絶たれ、かといって余生を養うこともできない。主人公は自分で殺してやることさえできずに父親にその処理を任せる。
このときに主人公が自嘲しながら、馬は怪我をしたら殺されるけど、人間は生きなくちゃいけない。そのへんの動物ならこんな怪我をしたら安楽死させられるのに。神は目的を与える。馬は草原を駆け、カウボーイは馬に乗るのだと語るのがまたつらい。本作を通して彼は結局そこに落ちていきながら結論するしかないという様子が描かれているのである。これって素直に「夢をあきらめるな!」って話をしているわけじゃないよなあ。そんな綺麗なものでも、感動できるものとして提供しているものでもない。もつれこむような泥まみれの帰着を描いているのだ。
物語終盤近くでその結論を得た彼はロデオに参加するために出て行こうとして、父親に止められる。そこで彼が言う、父さんはいつも俺をカウボーイとして育てるための言葉をかけてきたじゃないかと言い返すシーンはそれをよく表現している箇所でもある。オレにはこれしかないし、周囲もそうなるように導いてきた。障害を得たオレはじゃあ何なんだ?という、そういう叫びの物語なのである。そしてこれは実際のレインを取り巻く話(※以下で触れる)とも重なるところなのだ。ラスト、狭い世界で猛る彼(ら)はロデオに用いられる馬が檻の中で興奮する様子と重なって見える。彼らはその馬に跨って、狭いグラウンドを跳ね、あるいは落下する。それを鼓舞する声に囲まれながら。中盤でのロデオ見学のシーンではその歓声に無邪気に交じっていた主人公も、もはやここでは静かに他の人々を眺めている。そしてそこに(彼がどうするにしろ、それを見守りに来た)家族の姿を遠くに見つけ、彼はこの場所を去ることにするのである。車上から妹と共にロデオ会場のほうを振り返って眺めているその姿は果たして夢を諦めた男の姿なのか、開放された男の姿なのか。
ラストでまたレインとのシーンになり、レインが華々しく活躍していた頃の動画をまた一緒に観たり、レインを模したタトゥーを見せたりした後、このレインに「夢をあきらめるな(...Don’t... give up on your
dreams...)」と表現させる(ちなみに映画では採用されなかったようだが、脚本にはこの直後に「...You’ve...got a... You’ve got a better chance than I do...(おまえはオレよりもチャンスがある)」というセリフもあったようだ。それだと新たな呪いになるだけなので、なくなって良かった気はする)。ブレイディはレインの手を取り、乗馬したときの感覚を共に追体験し合う。そして自分たちがどうしようもなく馬に乗るのが好きであるのは本当であることを静かに確認し合い、主人公が最初に手放した白馬に乗っているイメージと共にエンディングを迎えるのである。この箇所は(たまたまセリフ確認で目を通して気付いたが、)台本でも表現されているように「Exactly where he wants to be.(本当に彼が望んでいる場所) 」なのである。馬は草原を駆け、ライダーである自分はその馬に跨っている。その自由こそ彼の夢であり彼らの夢なのだ。
彼らが求めるのは追いやられて苦しみにあげきながら不自然に生きる生ではなくて、そういう解き放たれた生であって、本作の言う「夢」とはそれのことなのだと思う。単純に、破れた夢をあきらめるなって話ではないし、その上での成功譚がしたいわけではない。語るべきはそんなきらきらしたところにはないのだ。主人公がこの後、結局、またロデオボーイを目指すか否かとかそういう話ではなくて、もっと別の人生の話なのである。本作が物語を通してもたらしている主人公への救いはそんなスナック感覚の感動ものではない。
(ちなみに映画台本はここ(https://www.scriptslug.com/script/the-rider-2018)で公開されているものを参照した。)

古典的な西部劇はめちゃくちゃに好かないのだけど(それが持つイデオロギーが受け付けないため)、現代的なそれとなるとなかなかどっしりと構える作品が多くて、一転して好きな傾向が高い気がする。
本作も観る前は馬が観れたらいい程度の期待値で観ることにしていたけれど(馬はいいぞ)、彼らの弱く煌めく、呪いの中の人間讃歌を垣間見させてもらうことになり、翻って我が身を頭の隅っこで意識することにもなり、どうしようもない淋しさを感じさせられた。
自分を取り巻く周囲は呪いと愛に満ちていて、それにがんじがらめになりながら生き、生かされている。それは閉塞感でもあり、慰めにもなるのだなあ。


余談。主人公が馬を調教するシーンが多く、中には、銃に慣れさせるくだりもあるのだけれど、これを観てると、軍馬の類の調教って馬も人もすごく大変なんだろうなと思ったりした。そうでなくてもお互い骨が折れるのだろうという前提はあるけれども。


最後に、監督へのインタビュー記事で興味深かった箇所をメモついでにここに簡単にまとめておく。(『FILMMAKER』-「Rodeo Dream: Chloé Zhao on The Rider( Mar 8, 2018)」https://filmmakermagazine.com/104938-rodeo-dream/)

・最初にブレイディに興味を持った時点ではまだ彼は重症を負っていなかったのが、たまたまその後に重症を負ったのだという。だから当初は本当に単純に彼のタレント性に興味を持って接触したのだという。

・Zhao: It definitely affected me in terms of what overall message I wanted the film to convey. In real life, I wished that Brady would see hope in his life after the rodeo, which inspired me to take his character to that direction.
(ここが本作のテーマとしても重要な回答になるが、監督としては、主人公のロデオの後の人生に希望を見出すことを描きたかったのである。)

・映画は訳者との掛け合いで作っていったので、台本はあくまで下地として活用した程度だった。

・ロデオのシーンなどは実際に行われているものに便乗させてもらう形で撮影したという。これもそもそも監督が既にこの地になじんでいたからこそ(=この地を消費するだけの人物として見られていなかったからこそ)許されたことである。

・役者を始めとするこの地の人々と長年交流していたからこそこの映画が作れたのだとのこと。

・レインとのやり取りについて。監督は撮影の中でかなりぎりぎりのタイミングで初めてレインと出会い、施設の環境などもぶっつけ本番に近かったという。その監督に対してブレイディはレインはこの役をやりたがるはずだと後押しし続けたという。「 I just knew that Lane wanted to do it because he wrote me on Facebook. Brady tells me, “Just trust me. Lane will want to do this. Let’s just go.” So, I had to trust Brady — it’s his story.」──「これは彼の物語」でもあるのだ。
そしてブレイディ自身、自分が重傷を負ってからレインと再会したのはこの撮影になってからだったし、ブレイディも自分がこうなるまでは彼の痛みを本当には理解できていなかったと気付いたのだという。「Brady said to me, “You know, I never really understood Lane’s pain until I was hurt and my riding was at risk.”」
オマハの人々はレインを愛しており、レインのほうも今の自分を表現したいのだということをみんなが理解していた。それに、本当はレインについてまた別にドキュメンタリーを撮影するという企画があったが、レインが重症を負ってしまったときにそれも消えてしまった。でもそれは愚かなことだったのだ。「because that’s where the story starts.(だって物語はそこから始まるのに)」。繰り返すように、本作はレインの物語でもあるのである。一見、人生が死の谷の影に落ちた彼らがそれを否定する話なのだから。
結末についても監督が意図したものではなく、ブレイディとレインの二人が自然にそれを演じたのだという。ブレイディにはあくまで、乗馬のときのことを思い出させるような演技を頼んだだけだったが、結果、ああいったものが表現されたのだという。
ちなみに、レインはこの撮影を通して「障害者として」自分を扱わなかったことが気に入っているとか。
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