レインウォッチャー

ノベンバーのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ノベンバー(2017年製作の映画)
4.5
エストニアのどこかと思しき寒村で、「死者の日」の準備が行われている。帰ってくる先祖の霊をもてなすのだ。
夜の森にしたたる月光が木々を昼間とは異なる姿に変え、人ならざる者を連れてくる。人々が動物と成り代わり、悪魔と戯れ、死者と挨拶を交わす中、リーナとハンスの若い男女はそれぞれの恋に揺れる。

モノクロの奥行き深く、妖しく、凍りつく水や土の冷たさ痛さが手に取れるほど美しい映像が、貧しく粗野な村の暮らしと隣り合い融和して物語を成していく。
このマジックリアリズム的ともいえる濁りの中、これは一体どこに連れて行かれるんだ…?と恐々進むうち、中盤を過ぎた頃ようやく気づく。

「「「ラブコメだこれ!」」」

そう、こんなに土着信仰系アヴァンギャルドホラー(何それ)としての画作りが完璧であるにも関わらず、実はピュアでしょっちゅう笑える、そして最後には哀しい後味を残す完成度の高いラブコメなのである。
このギャップ、俄には受け入れ難いかもしれないけれど、考えてみれば古くから伝わる伝説や民間伝承の骨子はごくシンプルな教訓譚だったりするもの。かつてこの世のどこかで言い伝えられていたが、今では炎に焼かれ、水底の土に埋まり、その上を幾重にも風が吹き過ぎた末に忘れ去られてしまった歴史の一頁を発掘したような印象がある。

時代感も、なんとなく中世と近代の狭間のようではあるものの敢えて特定を避けていると思われる。今日においてわたしたちが知っている、表面化した時の流れからは置いて行かれてしまった時・場所であるようだ。
そんな中で暮らす、彼ら村人の宗教観がとてつもなく面白い。

道具に魂を宿すことで使役する「クラット」は日本でいうところの付喪神のような存在で、明らかにアニミズム的な発想の下にある。他にも上述した「死者の日」では死者と生者の領域が森を介してごく自然に混じり合い、魔女なる存在が普通に村にいて呪術的な相談を受け付けていたりする。
ここまでであれば、ああ村に伝わる古来の多神教的な民間信仰なのね、というところだが、ここからが本番。彼らは外部(支配層)から持ち込まれたキリスト教すら、さほど抵抗なく受け入れているのである。

教会のミサに参加する様子もあるし、村には聖書も置かれている。しかし同時に、既に彼らの世界観に合わせた独自で奇妙な「アレンジ」が生まれてきているのだ。いわゆる魔改造といえよう。
そう、この村は異種交配による変異の途中段階にある。領主側にしても、彼らの宗教的行動に眉をひそめつつもまだ厳しく取り締まったりはしない様子。このある意味での「ぬるさ」が、文化の違法建て増しを助長している面もあるだろう。

では、そのようなアレンジは何のために生まれるのか…一言でいうなれば、「欲」のためだ。
もっと楽に暮らしたい、綺麗な服を着たい、恋を成就させたい、といった手前本位の欲が、新たなまじないや風習を産む。きっとここに至るまでもその繰り返しで彼らの信仰は発展してきたのだと想像すると、その禍々しさにぞくぞくさせられる。

劇中には支配層(貴族)と被支配層(村人)の格差構造があるが、決して村人たちを無垢で清廉な人物としては描いていない。むしろ意地汚く卑屈で「欲」に忠実な存在(なにせ時には悪魔すら騙すのだから)として描き、リーナとハンスの純粋さを際立たせると同時に、この「欲」が彼らの運命を決定づけ、そしてラストでは未来を示唆する。

欲とは、そのまま業と言い換えても良い。
エストニアという国の歴史を少しググれば、常に大国間の戦乱の影響下にあり、領主国がコロコロと変わるまったく落ち着かない土地であったことがわかる。ようやく1991年に独立するが、現在でも隣国ロシアとは緊張感のある関係が続く。

今作は、人が人である以上逃れられない欲・業に翻弄され続けた国だからこそ生まれ得た、異界の寓話だ。しかしもしかすると、世界にはこのような村が無数にあったのかもしれない。この物語に惹きつけられるのは、それをどこか奥底で憶えているからではないだろうか?
時代に押し流されて森の奥に消えた魂のおぼろな揺らぎは、わたしたちの血の中で起こされる日を待っている…。