夏藤涼太

機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの夏藤涼太のレビュー・感想・評価

4.4
劇場版ファーストガンダムに続いて見直しました。富野由悠季が『ガンダム』という作品で何を伝えたかったのかが、ようやくわかりました……。


富野由悠季の流れるような美しい絵コンテと神がかり的な編集センスによって紡ぎ出される濃密すぎる戦争ドラマ、キレッキレの(というかもはや完全に成り立っていない)会話、セルアニメの到達点とも言える精緻なロボアクション作画、予算やスポンサーからの圧力のためにTVシリーズでは叶わなかったSF考証へのこだわり等々、クオリティに関してはガンダムシリーズの最高傑作と言って差し支えなかろう。

(もっとも、キャラデザだけは異論ある人は多かろう。また、あまりにも濃密すぎて、初見、いやニ見ではその情報量を受け止められず、面白いのかどうかも良くわからないという問題はある……ので、未見の人は、騙されたと思って3回は見るべし)

だが、ファーストガンダムを見直し、「戦争の酸いも甘いもを描く」というテーマを噛み砕いた後で見たことで、以前見たときにはさっぱりわからなかった、人類の革新や、シャアの行動原理、終盤の悲劇とラストシーンの意味がはっきりとわかった気がした。

そして逆シャアのテーマがわかったことで、富野ガンダム(宇宙世紀ガンダム)全体を貫くテーマや、富野由悠季の描きたかった世界観までもがようやくわかったのだ。
そういう意味で、本作はやはり富野ガンダムのマスターピースであると言えよう。

ガンダムシリーズにおける「ニュータイプ論」が60年末〜70年代に流行った「ニューエイジ思想」の影響を受けていることは言うまでもないが、大事なのは、ニューエイジ思想の中での、「宇宙的意識」にある。

つまり、68年にアポロ8号が初めて宇宙から地球を撮影、公開。人類は初めて、地球の美しさと、地球が本当に1つであることを「体感的に」知った。
それは、ベトナム戦争の泥沼化で厭戦ムードが漂っていたアメリカの若者に大きな衝撃を与えることになる。
国同士で争い合う意味なんてない。皆、同じ地球人じゃないか――そんな意識が生まれたことで、「ラブアンドピース」という思想が生まれたわけだが……彼らヒッピーこそが、リアルな「ニュータイプ」だったのである。

ハサウェイがニュータイプのことを「地球だけで人類が暮らしていた頃には必要としていなかった能力」とクェスに話したように、ニュータイプは、人類の宇宙進出によって誕生した。
宇宙的意識なしに、ラブアンドピースの思想はありえないからだ。
(なおこの宇宙世紀におけるニュータイプの目覚めは、ガンダムの世界観内では、コロニーと地球で家族同士が離れて暮らしたり、コミュニケーションを取るようになったから。テレパシー的な空間を超えた、究極のコミュニケーション手段がないと、コミュニケーションが成り立たないから、ということだろう。あくまでもハサウェイの考えかもしれないが)

故にハサウェイは、「地球と宇宙で離れていてもわかり合うことができる能力」と、クェスは「人類みんなで共感しあえる」と語った。
アムロは、ニュータイプの力とは「優しさ」だと思っているらしい(アムロが自分で語ったわけではなく、ナナイやシャアの独白でそう語られているだけだが)が、これも、「相手のことがわかる(共感できる)」ということが、そのまま「相手のことを考えられる」=「優しさ」だと解釈しているのだと考えられる。

実際に、ニュータイプたちはテレパシー能力を使ったり、空間内にいる人々の意識をすべて取り込んでしまったりしている。

富野由悠季本人も、ニュータイプのことを、「洞察する事の出来る力。つまり、相手の思っている事を間違いなく理解できる力」だと山田玲司の『絶望に効くクスリ』で説明している。

本当にそんなことができるなら、人と人同士は完全にわかり合えることができるし、すれ違いも諍いも起きないだろう。つまり、戦争は起きない。
だからこそ、人類皆がニュータイプになれば、戦争は二度と起きず、ラブアンドピースが達成できるはずである。

そのためには、地球に残る人々(オールドタイプ)は消し去らなくてはならない。ニュータイプになるには、宇宙への進出が不可欠だからだ。

それこそが、ジオン・ズム・ダイクン、及びララァと出会ったあとのシャアが掲げた、人類の革新。人類皆をニュータイプにするという狂気の戦争の正体だ。
宇宙世紀とは、ニュータイプの歴史であり、人類の革新の時代と言ってよいだろう。

戦争をなくすために、「地球に居続ける人々」を全員粛清する。そのためにアクシズを地球に落とす。
それは、権力に固執する地球の俗人を殺すという意味だけでなく、ニュータイプになろうとしない、宇宙意識を持てないオールドタイプの人類を抹殺することで、人類皆をニュータイプにするという意味だ。

ミライが言っていた「シャアは純粋すぎる人よ」というセリフは、まさにそのとおりだと言えよう。
シャアは宇宙全体の平和、人類から争いや諍いをなくすという高潔な、尊い思想のために虐殺を起こそうとしたのだから。

つまり、シャアはニューエイジ思想の超過激派だったということだ。
(じゃあアムロは?と言うと、理想主義者と言えるだろう。本質を掴んでいるクェスに「セコいよ」と言われて裏切られたように、やはり、アムロの思想は理想論に思える。もっとも、ニュータイプとしての並外れた力と、それをさらに増幅させるサイコフレームのおかげで、その理想は「奇跡」として現実化したわけだが)

つまり第二次ネオジオン抗争とは、普通の戦争ではなく、このような思想上の対立によって起こったある種の宗教戦争・民族戦争なわけで。
そのことを理解しせず、ただの政治の一環としての戦争だと勘違いしていた地球連邦政府高官は、ジオンにアクシズを売るという形で、和平した気になっていたわけである。普通の戦争なら、アクシズ落としなんてするはずがないからだ。
(そんな現場と上層部の間で、これだけ立派に昇進したのに、未だに中間管理職として板挟みにあっているブライトもまた、本作の見どころの一つである。そんなことを踏まえると、唯一、シャアだけが「やるなブライト」と何度も褒めれてるのに妙にほっこりする)

……とはいえ、もっとも実際には、シャアにはアムロを叩き潰したいという宿願があり、それを叶えるために大義を唱えているフシがあるということは……言うまでもないのだが。
(さらにはガンダムという作品(=地球)を終わらせたい富野由悠季のエゴと良心の葛藤のメタ的な投影とかなんとかかんとか)

しかし人類の革新(全人類のニュータイプ化)が成功すれば、その先にあるのは、人類補完計画と同じ状態ではあるな。
もっとも、エヴァは個人同士のすれ違いの解決、それに対してガンダムは、国や民族、コミュニティ同士の対立の解決と、そのモチーフが語るテーマは異なるけれど。

だがしかし、ガンダムが、富野由悠季が面白いのはここからである。

完全に他者をわかり合える能力を持つはずのニュータイプ同士であるアムロとシャアだが、結局二人は最後まで互いを理解することはなく、それどころか何度も殺し合うことになる。ファーストからこの逆シャアまで、愛する者も、女も子供も、二人の戦いに巻き込まれて死んでいく。

他者を理解し、共感し合えば、戦争はなくなる。そう思っていたのに、実際にはそうならなかった。そこに人間の業がある。
レビル将軍はファースト本編中で「ニュータイプとは、戦争なんぞせんですむ人間のことだ」と皮肉めいた話をしていたが、これは一周回って本質を突いているようで、実際にはそうはいかなったのである。

富野由悠季はロボットアニメにニュータイプ論を持ち込むことで、リアルな戦争ドラマだけでなく、いつまで経っても戦争をやめられない、人間の愚かしさを徹底的に描くことに成功したわけだ。
ニュータイプというファンタジー設定がなければ、「人間と戦争」というテーマをここまで深く描き切ることはできなかっただろう。

そして映画自体も、最高のニュータイプ同士が口喧嘩をしながら消息不明になって終劇を迎えるというのだから……なんとまぁ、皮肉に満ちた結末か。

しかし知ってのとおり、本作のラストでは、サイコフレームによる共振(解釈は多々あるだろうが、個人的には、ニュータイプでない者にも精神的交信を起こさせる技術だと思っている。だから地球の裏側の連邦軍はおろか、ネオ・ジオン軍の兵士たちにまで、アムロの切実な想いが届いたのだろう)によって、一つの軌跡が描かれる。

わかり合うことができても、人は争いを止められない。そんな人類の愚かしさを皮肉たっぷりに描くと同時に、「いや、わかり合えればこのような奇跡だって起こせるはずだ」――そんな希望を描かずにはいられなかった、富野由悠季の心の葛藤を、ここに見ることができる。

(ファーストガンダムの劇場版の締めくくりで表示される「And now in anticipation of your insight into the future.」にも、同じようなメッセージ性を感じることができる)

まさしく、映画史に燦然と輝く戦争映画の名作であり、SF的発想(センス・オブ・ワンダー)によって戦争映画の可能性を拡張した革命的一作だと言えよう。


あと、これは完全に個人的な好みだけど、νガンダムは、歴代ガンダムで一番デザインが好き。
無駄のないフォルムと、白と黒の色彩バランスが素晴らしい。さすが出渕裕。
夏藤涼太

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