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オオカミの家のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

オオカミの家(2018年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 見ている最中に飲み込まれるような感覚。映像はワンカットでシームレスに繋がりしかも部屋という空間からは脱することは無く、音は触覚的で神経質な感じ。期待したし、それを全く裏切らない作品だった。

 同時上映された短編「骨」と同じように、こちらもあるカルト教団の広報映像という”テイ”の映像である。甘い蜜の名前が「コロニー」だなんて大概な皮肉だなぁと。ちなみに今作に助成金を出したチリ国家への感謝状も、カルト教団側が謝辞を送るというテイなのが皮肉たっぷり(その理由は後ほど)。

 そしてこれまた実在した”コロニア・ディグニダ”というカルト宗教が題材にされている。オウム真理教を題材にするようなことでしょ、すごいなぁ。コロニア・ディグニダが極悪なのは国家権力ともナカヨシだったことだ(助成金の皮肉はここで効いてくる)。これまた「骨」と同様国家権力を相手取る作品となる。wikiで調べると現在まで続く問題であることも、またその凄惨な内状もわかる。

 まずこれは教団側が作ったものであるということから話は始まる。しかし、始まると何だかとても禍々しいので、広報としてどうなんだと思えるわけだ。気がつくとフィルム特有の画面のダメージも消え、見せられてる”テイ”であった映像が一人歩きを始めているように思えてくる。そして完全にマリア視点に立っていると不意に物語は解決していて、オオカミはナレーターの役割を取り戻していて、フィルムも傷が戻ってくる。あぁ、そうだ、これコイツらが作ってたんだったと思い出す。そして今まで観ていた映像は、まるで検閲から逃れるように我々に開かれた瞬間にマリアによって変容し、真実として伝えられていたのではないかと思えてくる。中盤の夢物語を最初と最後の現実で挟むというサンドウィッチ方式だった。夢という内的なものを共有することでマリアがより真実を我々に明かしていたように思える。マリアの真実をオオカミの綺麗事なんかで纏められないわけで。なんですか「黄色い鳥になって助かりました、おしまい」って、教団側のセンス無えー。

 しかし、この内的な語りに既になんどもオオカミが出てきており、おそらくこれはマリアの心に巣食ってしまった存在と言えるだろう。フロイト的に言えば父像としてオオカミは居座る。いやなんならこの家というもの自体が既にオオカミであり、マリアは精神的に抜け出せないままだったとさえ言える。また、新たな家での子供達の奇妙な金髪白人化は、まさに教団の与えた”蜜”によって為されるわけで、マリアは根本は教団の教えを引き継いでいる。子供達がオオカミに変わるとマリアが言うが、これまた自身と彼らの絶対的上下の構造が崩れることによる強迫観念だった可能性も否めない。

 アニメーション表現も面白かった。ストップモーションアニメの液状化という感じ。つまり、形式の中ならば、ペイントも立体もセル画も一緒くたになれるのである。ここまでジャンル横断的かつその境界を曖昧にする表現は見たことない。そして何より作られる過程さえもが作品表現になってしまうのだから。過程とは裏側なはずだが、ある意味人の手が重ねる膨大な時間や手数に、マリアの怨念や執念がリンクして見えると言えるだろう。レオン&コシーニャが発掘された映像で、誰かが作ったものであるという提示の仕方を取るのは、裏側にいる人間の怨念、執念の手をフレーム外に感じさせるためだったのではないだろうか。ちなみに音もそうした作り出される手数を表すための音であり、SNSでは「ASMR的だった」という感想さえ見受けられた。まさに手触りの良い音質であった。

 エンドロール、マリアと子供の二人合唱が響く。子供のけばけばしく齟齬をきたす感じからは、子供がオオカミになりうる無邪気かつ邪悪な予感を感じさせる。もし子供がほんとにマリアを食べようとしていたならば、教団批判以前に人間存在の不条理で地獄絵図だなと思った、個人的には教団のせいにしたい。結局、その人間存在の不条理から逃れるためにカルト教団があるとすれば、どこにも出口は無いではないか。そんな自分の考えをよそに、次はオオカミ独唱が入る。二人合唱と同じ歌を独唱する、これ、相手になって歌い従う存在がいるのではないだろうか。映画館という部屋に閉じ込められた観客は、マリアの後に歌うみたいにオオカミの歌を聞くのだった。
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