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オオカミの家のambiorixのレビュー・感想・評価

オオカミの家(2018年製作の映画)
4.3
公開初っ端から満席の回が続出、SNSでもたいへんな話題を集めたチリ発のストップモーションアニメ映画『オオカミの家』をようやく見てきました。俺なんかはとにかく「今までに見たことがないものを見たい!」からこそ映画館に行って、決して安くはないお金を払っとるわけですが、そこへいくとこの映画は満点ですよね。ある部屋の壁にペインティングされた絵をパシャリと撮り、前の絵を少しだけ変化させながら塗り直してパシャリと撮る、という工程をおそらくは何千回何万回と繰り返したことが伺えるであろう(さらにその途方もない制作過程を観客にあえて想像させるつくりにもなっている)、もはやキチガイとしか思えない本編のファーストシークェンスからいきなり度肝を抜かれます。
真っ黒に塗りつぶされた背景の中から人の絵が現れてヌルヌルと動き、やがてドロドロに溶けたのちに今度は粘土細工やフェルトの人形になっていく…。ここで表現されているのは、人間の自己同一性が溶解し形をなくしていくプロセスであり、実存が揺らいでしまうことによる不安の感情なのだ、と言えるのかもしれないけれど、一方でわれわれ観客は、次々に姿かたちを変えてゆく主人公マリアのことをお話のはじめから終わりまでほとんど見失わずに済んでいるはずです。それは、彼女が「金髪」と「青い目」と「青い服」という記号をそれぞれ併せ持った人物だからだ、と認識しているからに他なりません。これらの記号が失調してしまわない限りマリアはマリアであり続けることができる。けれどももっというなら、最初は豚だったのが豚人間になり、次いで人間の姿になり、果てには髪の色まで変わってしまうアナとペドロの2人をきちんと認識できてしまうというのも面白い。もちろんそれは主な作中人物が3人しかいないから(オオカミの声を含めれば4人)、というのもあるんでしょうが、本作で用いられたストップモーションの前衛的な手法はアニメーションのもつポテンシャル、および人間の認識能力の高さを証明するものでもあります。
というようなことを書いていて思い浮かべたのが、フランスの哲学者であるアンリ・ベルクソン(1859-1941)やジル・ドゥルーズ(1925-1995)の提唱した「生成」「持続」あるいは「生成変化」の概念でした。映画の感想文でフランスの現代思想に詳しく踏み込んでも仕方ないし、何より俺が哲学の方面には全然明るくないので(笑)、ざっくり要約してしまえば、「人間は固定された状態にあるのではなく、常に変化の途上にあるのだ」と彼らは言っています。一見したところは止まっているように見えても、人間の身体や精神は絶えず何らかのアクションを起こしている。さらに、時間や流れといったものは細切れにしたり逆向きにしたりすることができない。のべつに画面上の何かが動き、一秒たりとも静止することのない本作『オオカミの家』をこの上なく的確に言い当てた概念ですよね。そして、作り手であるクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの2人はこのことを意識的にかつ明示的にやっているようにも思います。たとえば、家の中で2匹の豚を見つけたマリアが水差しからタライに水を注ぐ序盤のシーン。水をタライに注いで豚たちに飲ませる、というアクションの間にマリアの腕が伸びたり縮んだりしているわけですけど、普通に考えればこんなしち面倒くさい見せ方をする必要は微塵もないわけです。腕の長さを保ったままでいればその分だけ余分な工程が減るわけだから。同様のアクションはマリアとアナとペドロの3人が食卓を囲むシーンにおいても見られます。あとは場面転換のさいに、真っ白な人形が出てきてそこに色をつけたり髪の毛をつけたりするプロセスをいちいち映していたりやなんかもしている(こんなものは別にカットしてしまってもいい)。このことは人間のキャラクターに限った話ではなく、背景やオブジェクトに至るまでのすべてが常に何かから何かへと変わり続けています。
気づいた方も多いでしょうが、本作のストップモーションアニメのパートはすべてワンシーン=ワンショット風に撮られています。ようするに、実写の場面やエンドクレジットを除いた本編のだいたい60分強の間、一度もショットが途切れることなく持続している。ところがこれは明らかな語義矛盾です。なぜならアニメーションというのは、何千枚何万枚もの静止画=ショットを目まぐるしいスピードで次々に切り替え、あたかもそれらが動いているかのように錯覚させる芸術だからです(原理は映画も同じなのだけど)。つまり本作の監督たちは、本来なら対極に位置し決して相容れないはずのワンシーン=ワンショットの手法と静止画の連続体であるアニメーションとを融合させようと試み、「生成変化し続ける世界」を描き出すというブレイクスルーをみごとに達成してのけたわけで、こう考えるとなかなかに凄まじいことをやっているのではないでしょうか。
ドゥルーズとの関連でいうと、もう一つ有名な「リゾーム」が連想されます(日本語に訳すと「地下茎」)。リゾームというのは、お互いに関わり合いのないもの同士が水平的な横の関係で結びつくさまを表す概念です。明確な中心点を持たず、絶えず流動的に流れ、茎同士でくっついたり離れたりする触手のようなイメージです。これもまさしく本作のアニメーションで全編にわたって表現されているものだとは言えないでしょうか。個人的には、先述した腕が伸びたり縮んだりする動き、というのがリゾーム的なアクションに見えて仕方がない。リゾームをめったやたらに伸ばし続けることによって、登場人物たちはなんとか水平的で平等な関係性を築こうとしている。一方でこのリゾームと対になるのが、階層的な上下の関係を表す「ツリー」の概念です。映画には森や木などの上方向へと伸びていく植物のモチーフがよく出てきます。樹木が乱立する森の中をマリアが逃げていくシーンから始まり、ラストシーンではキャラクター自身が木になって終わるわけですから非常にわかりやすい。彼らは物語の最後の最後でもってヒエラルキーの構造を自身の身体へと刻み込んでしまったわけです。リゾーム的なコミュニケーションの可能性は最終的に断たれてしまう。
あんまり長いことアニメーションの面や抽象的な面について書きすぎたので、本作『オオカミの家』が持つ政治的なバックボーン、つまり、カルト宗教団体「コロニア・ディグニダ」やチリの独裁者ピノチェトが敷いた全体主義の体制が作品の裏テーマになっていることなどについて触れる余裕がなくなってしまいました。しかしながら、映画の中で描かれた社会構造のカリカチュアが日本人にとっていまいち馴染みのないチリだけに特有の代物なのか、というとおそらく違いますよね。本作がこれほどウケたからには何かしら日本人にも共鳴する何かがあったはずです。さもなくばよくあるヘンテコなアニメーションのひとつとして消費されて終わっていたはず。俺が思うにここで描かれているのは、世界中にあまねく存在する「支配するもの/されるもの」の関係性です。ぶっちゃけて言えば、普段から自民党の連中にさんざっぱら痛めつけられ、そのことを十二分に自覚しているわれわれが、本来ならリゾーム的な方面へと舵を切らなくちゃあいけないのに、選挙の時期になるとなぜだかコイツらに票を投じ続け、ツリー的な自発的服従の立場に甘んじてしまう、という自民党一強政治のメカニズムなのです(笑)。そのことをみんなが無意識のうちに嗅ぎ取ったからこそ、この映画は予想外のヒットを収めることができたのではないか…というムチャクチャな結論を出して本稿を閉じたいと思います。
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