YasujiOshiba

オオカミの家のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

オオカミの家(2018年製作の映画)
-
MUBI。23-149。英語字幕版。数日前に見たばかりの薪能を思い出す。まずは時間の流れ方。その日常から乖離ぐあい。そして動き。ストップモーション・アニメの独特のコマおくり(1秒12フレーム?)が、能の体捌き・足捌きの緩急と共鳴する。なるほど幽玄の世界だ。

制作技法も面白い。5年かけて、各地のスタジオや美術館で公開しながら撮影したという。そうするとファンも増える。映画はいつできるのという声もかかる。撮影現場に一般人を招き入れ、ある種の祝祭的な空間をつくるという方法は、なんだかフェリーニを思い出す。『甘い生活』なんてカオスだったらしい。でもそれが映画の活力となる。

物語の背景にあるのはチリのドイツ系カルト「コロニア・ディグニダ」。チリのピノチェト政権とイタリアの関係についてはナンニ・モレッティの『Santiago, Italia』(2018)を見て学んだけど、こちらはうかつにも知らなかった。このカルトを題材にした映画には、エマ・ワトソンが主役の『コロニア 』(2015)や今年(2023年)の6月に公開された『コロニアの子供たち』(2021)などがあるみたいだが、どれも未見。

備忘のためにウィキのリンクを貼っておく:
https://ja.wikipedia.org/wiki/コロニア・ディグニダ

リンク先の記事を読めば、今この国でも話題になっている某カルトや某芸能事務所と政治の関係などが連想される。けれどこの映画は、おぞましい歴史を題材にしながらも政治に染まることなく、むしろ政治を映画として、それもパゾリーニならばプリモルディアーレ(原初的な)と呼びそうな作品に仕上げている。だから、能のような芸能と共鳴する。

タイトルの「オオカミの家」とはコロニア・ディグニダ(Colonia Dignidad)のこと。気になるのは「尊厳」と訳される「Dignidad」という言葉。これはもともと「〜にふさわしい」(degno di... )という意味であり、たとえば「貴族の尊厳」とか「騎士の尊厳」という用法から始まり、やがて「人間の尊厳」という広い意味で使われるようなる。

ところがその「尊厳」が、ドイツ生まれのパウル・シェーファー(Paul Schäfer Schneider、1921 - 2010)なる人物が1961年にチリで開いたドイツ系移民の入植地の名称として用いられるとき、その意味の曖昧さがカモフラージュの役割を果たす。この尊厳のコロニーのモットーを見よ。「労働、秩序、清潔さ、規律」は、アウシュビッツの「労働は自由にする」を連想させる。人間的を装いながら、ドイツ人的な価値だというのさえ疑わしい。「尊厳のコロニア」はまさにカルト。

そんなカルトを外から批判するのはたやすい。けれども、人は多かれ少なかれ、なんらかのカルトに生きる。外に逃げ出しても、逃げ出した自分自身の中にあるカルトはどうするのか。オオカミとはまさに人間の内なるカルトのことでもある。

そういえばイタリア語では、誰かに「がんばれ」と言いたいときに「オオカミの口のなかに飛び込め」(In bocca al lupo)と声をかける。その返事は「くたばれ、オオカミ」(Crepi il lupo)だ。つまりぼくらは、何かをするときはオオカミの口のなかに飛び込む。オオカミにかこまれて生きている。そんなぼくら自身もまたじつはオオカミかもしれない。そういう話だ。

オオカミに対応するのがブタ。ドイツ語でブタは「Schweine(シュヴァイネ)」と呼ぶけれど、コロニア・ディグニダではチリの現地人のことでもあったという。ブタはヒトではない。コロニアから逃げ出したマリアが森で逃げ込んだ家のなかに発見するの2匹のブタは、初めからチリ人ではあったがヒトではない。尊厳はヒトのもの。ブタにはない。けれども、尊厳にあたいしないブタと暮らすところから始まるのが、マリアの物語ということなのだろう。

そしてぼくらは「オオカミの家」が実のところ「マリアの家」だったという発見に驚く。けれどもそれは、コロニアによって予め用意された驚きだ。なにしろこのストップ・アニメーションのフィルムは、失われたコロニーのロスト・フッテージという体になっている。

そうだと知ったうえでぼくらが今一度驚かなければならないのは、くつろぎの中でスクリーンに見ていた作り物が、じつのところぼくたち自身の姿にあまりにそっくりだということなのだろう。

もしかすると、ぼくたち自身もまたオオカミにかこまれ、自分の内側にオオカミをかかえ、ブタを探し出しては空腹を満たそうとしているのだろうか。ぼくらはあのストップ・モーションのパペットのような存在なのだろうか。その不安は、たんなる寓話の教訓を超えて、この先もきっと悪夢に繰り返され、ぼくらの魂を揺さぶり続けるに違いない。
YasujiOshiba

YasujiOshiba