通りすがりのアランスミシー

1人のダンスの通りすがりのアランスミシーのレビュー・感想・評価

1人のダンス(2018年製作の映画)
2.0
映画である必要が無い、というかフィクションである必要が無い私小説のような作品。
友人と喧嘩しに行くという極めて個人的なストーリーを半径5メートル以内の世界で展開させており世界観の広がりは全く無い。
いろんな意味での閉じきった作品。

何かで監督の安楽氏が「友達と喧嘩してつくった映画」と語っていたが動機が全く理解不能。
友達と喧嘩したのならその友達と話し合うなり殴り合うなりすればいい。
なぜ本人が本人役で出演した映画をつくって観客に見せようと思ったのだろうか?
上映時間中の3分の1ぐらいは主人公がずっと叫んでいるのだが、これはイデオロギーを車上からまき散らす右翼の宣伝カーや候補者の名前を連呼する選挙カーと同じだ。
叫べば印象には残るだろうが、それは思想やマニフェストが心に響いたから印象に残ったわけではなく脊髄反射のようなもので内容の良し悪しとは全く関係ない。

叫びたいほどもやもやしたものがあるなら、映画にして劇場で見せるより週末の路上でストリートパフォーマンスでもした方がよほど生産的だと思うのは私だけだろうか。(それに観客をつきあわせる必要はあるのか?)
人にものを見せるという行為に対して無神経なのではないかと思えてくる。

やたらと叫ぶせいか「熱い映画」という評価が散見されるが、熱い映画とは出演者や監督が燃えることではなく観客を燃えさせるものだろう。
作った人間がいかに情熱を賭けたかなど見る人間には何の関係も無い。

では全くダメかというとそうではなく、中盤までは素晴らしい。
「人・人・人・クローズアップ」となりがちなインディーズ映画には珍しく引きの画を効果的に使っているし、編集もリズムがいい。
音楽の使い方は導入の仕方といいフェードのさせ方といい抜群だと思う。
特にMOOSIC LABの選出作という性質を考えるとよくハマっている。
この作品は音楽の麻酔がききすぎていて、そのおかげで苦痛度は幾らか和らいでいる。

しかしそれは作品の中身とは関係ない。
MVに私小説的自分語りがくっついた映像付きのイデオロギーのようになってしまっている。

と言いつつ最後に付け加えておくと、この映画に対する評価はインディーズをどれだけ見ているかによって変わってかもしれない。

私のようにインディーズを大量に見ている人間はパターンが読めて嫌な予感がしてしまうからだ。
中盤で監督・主演の安楽氏が叫び始めたとき、私は嫌な予感がした。
「まさかこの後、走って人を殴る展開にならないよな……」

嫌な予感は見事に的中した。
個人的な最も見たくない展開予想が的中してしまったこのやるせない気分。
私は虚空を仰いでただ、ため息をつくばかりだった。