ーcoyolyー

スウィング・キッズのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

スウィング・キッズ(2018年製作の映画)
3.8
いきなり『ハバ・ナギラ』が流れてきて面食らう。ユダヤ教のお祭りでかかる重要な曲じゃん、一体どんな意味が…と思ったんだけど『ハバ・ナギラ』に合わせて踊ってても特にユダヤ教的な何か寓意を含む意図はないのかな、それともやっぱりアウトサイダーの音楽ということで選ばれたのかな。この映画、そのくらい深読みさせる程度には社会のメインストリームではなくて零れ落ちた周縁に追いやられた人しか出てこない。白人兵士ムカついてWASP死ね!とかも思うんだけど、あのムカつくWASP男どもも本国に帰るとその階層の中では身分が低くて差別される側じゃないのかな、沖縄や朝鮮戦争に送られてる部隊って海兵隊だよね。海兵隊って確か米軍の中でも荒くれ者の集まりで一段低く見られてるんだよね?黒人や北朝鮮側の捕虜やパンパンや中国人(この人は中国の朝鮮族なのかな、最近北朝鮮国境の都市からやってきたサッカー好き中国人男性と友達になったんだけど朝鮮族には何か色々思うところがあるようだった)は分かりやすく被差別者なんだけど、この映画の描き方だと白人たちも分かりにくい被差別者のような気がする。聖書やクリスマスを持ち出しているから大勢はクリスチャンなんでしょうけど部隊には当然ユダヤ教徒もいますよね。この時代のアメリカ人が捕虜にサッカーやらせて喜ぶかな?というのもあるからこのトップの白人所長はヨーロッパ移民なのかな、アイリッシュとかこの時期色々めんどくさそうなドイツ系とか。

そう思うと選曲が相当練られているように思えて注意深く聴くようになった。ボウイ(未履修)の『Modern Love』は『Let's Dance』収録曲だからなんでしょうけどクリスマスパーティーで『主よ御許に近づかん』演奏する?この時期に演奏されるのって『ハレルヤ』とか『グロリア』じゃない?『主よ御許に近づかん』は聖歌集に載ってて歌ったことはあるけどもこの時期に聞いたり歌ったり演奏した記憶はない。カトリック女子校元吹奏楽部員、この時期キリスト教関係曲の演奏に聖歌隊にとフル稼働で事あるごとにイベント呼ばれてて、我が校のクリスマスツリー点灯式に毎年北海道ローカル局の中継入って吹奏楽部員と合唱部員とあと宗教研究会の人もかな?集められて『グロリア』歌わされたのよく覚えてるんだよね。北海道全域に中継されるから大相撲中継のその筋の姐さんバリに寮生がカメラに抜かれやすい場所に配置されて田舎のご家族に函館で元気にやってますと顔見せする配慮されてて私ども自宅生は隅っこでただの合唱要員なんですけども、年によっては口の中に雪が入ってくる寒さ覚えてるんですよね。俺らお嬢様風に演出された捕虜もしくは受刑者みたいな生活だったから。プロパガンダ要員やってた私は異様にアウシュビッツの楽団員に感情移入してしまうことが未だに止められない。

で、この違和感何かありそうだなと調べたら『タイタニック』(未履修)で船内で沈没直前まで演奏されていたのが『主よ御許に近づかん』だったと知って、重要なフラグだったのかと腑に落ちた。元聖歌隊員の違和感仕事した。

この監督、先行作品をとにかく研究してるぽい。その主旋律になるのが『リトル・ダンサー』だと思うんですが、似てるところは沢山あるのに精神性が決定的に違うんですよね。大いに参考にはなったと思うんだけど『リトル・ダンサー』はメインのお話がビリー・エリオットの成長譚でしょ。この軸はブレない。この軸の枝葉としてあの時代のイギリスの地方の労働者階級の閉塞感をケン・ローチ風に入れてきたりアンジェイ・ワイダリスペクトも入れてきたりしてるけどメインはあくまでビリーのビルドゥングス・ロマン。でもこの作品はそうじゃない。この作品がメインで描きたいものは不条理だ。この時代の朝鮮半島が巻き込まれたアメリカとソ連の代理戦争が生んだ不条理。この作品にとってダンスシーン重要じゃないんだよね、添え物。エンタメですよ娯楽ですよというアリバイ作りでしかない。人が殺されるシーンもあえて(『俺たちに明日はない』インスパイアの)タランティーノ的な軽さで描くのもそれ。これシリアスに向き合ったらエンタメでも娯楽でもなくて客入らないからそういう糖衣に包んで不条理を食べさせてる。

多分冒頭の方は『フラガール』も研究したのかなと思うんですけど、それとは別に在日コリアン監督の映画作品とフィルムの手触りがどこか通じるものがあってこれなんだろうなといつも思う。在日コリアンの映画監督の人たちって日本映画で育ってると思うのに韓国映画観ると確かに通じる感触がある。あれなんだろうな。

昨日『100分de名著』見てたら『ゴールデンカムイ』監修もしていた先生が「皆さんカムイを神の発音に引きずられてカにアクセント置いて発音しますけど違うんです。アイヌの言葉ではカムイはムにアクセント置くんですよ」と仰ってまして、私は鳥肌立ったんですよね。それは我が母語である北海道弁のイントネーションなんですよ。この場合の「カムイ」は「寒い」と同じイントネーションなんですけど、北海道弁ってこうやって単語の真ん中にアクセントきがちなんですよ。例えばピアノはアが上がるとか。私が育った道南地域は松前藩が何かしたらしくてアイヌの痕跡ほとんど残ってないんだけども、アイヌ語と北海道弁、こうやって地続きなんだ!アイヌと和人こうやって言葉が交わってたんだ!イントネーション影響しあってる!ちゃんと交流あったんだ!その証だ!と胸熱になってしまって。で、なんというか断絶しているように思えていても実は何かが共通の通奏低音のように流れている事例、在日コリアンと韓国の映画監督の間にもあるのかなってそんなことを考えてました。
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