シュンティ

天気の子のシュンティのネタバレレビュー・内容・結末

天気の子(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

それはもう、楽しみにしていた本作。新海誠の作品は「ほしのこえ」から「君の名は。」まで(全てリアルタイムというわけではないけれど)観ている。

今回の特報が発表された時、楽しみに楽しみにそれを見た。

だけど、「君の名は。」の特報(ティアマト彗星落下と共にモノローグが流れるやつ)を見たときのようなワクワク感を、感じることが僕はできなかった。それがなぜか、確認するために観に行ったとも言える。

本当にどうでもいいことだけれど、帆高の声に対して感情移入ができなかった。醍醐虎汰朗という方を知らなかったけれど、知らない事が問題ではない。

「君の名は。」で瀧を演じた神木隆之介は、本当に上手だった。三葉と入れ替わっている瀧、というのを演じきれたのもそうだし、セリフの端々に感情がこもっている。三葉という存在を、本当に求めていた時の瀧の感情の機微を本当によく表現できていた。

帆高はどうだったか。陽菜を求めていた帆高は、本当にその感情の機微をスクリーン上で表現できたいたのだろうか。「できていた!」と感じた方も、もちろんいるだろうが、個人的にはできていなかったんじゃないか、演出、作画や背景美術に頼って、役者そのものが持つ力量として、単純に不足している点があったのではないか。そう感じている。

そこをまず挙げておいて、ストーリーに触れたい。

雨が降り続く東京。地元から東京に家出してきた帆高と、そこに現れた100%の晴れ女であるところの陽菜。その力を頼る人たちと、その力を使うことによって起こる陽菜の異変。

特報や予報からある程度は推察できたストーリーだった。確かに、雨が降り続く東京という舞台はとても魅力的で、「言の葉の庭」でもそれを感じてはいたので、その舞台をどう生かしてストーリーが進んでいくのか、楽しみだった。

「君の名は。」であるところの「入れ替わり」が、本作でいうところの「100%の晴れ女」であろう。そこがストーリーの肝であり、その設定をどう生かして有効な舞台である雨が振り続ける東京を駆け抜けるか、それが勝負であったと思う。

陽菜の能力に限界がある(中盤で語られる所の『人柱』)ことは、序盤の時点で察しがついた。では、そう捉えてしまう人たちに向けて、新海誠はどういう流れを用意したのか。

世界を救う(この場合、雨が振り続ける東京で晴れをもたらす)ことで自身の存在意義を見出す陽菜と、その陽菜に惹かれる帆高。雨が振り続ける東京という舞台で、晴れをもたらす陽菜は、帆高にとっての希望でもあり、人々にとっての希望でもある。
そう考えた時に、陽菜というキャラクターはとても良くできているが、一方の帆高はどうだったか。僕には随分と自分主義というか、周りの目を考えずに突っ走るキャラクターに写った。それは、「君の名は。」における瀧と行動を比較した時に、ピストルをぶっ放す行為であったり、警察から逃げ出し線路上に立ち入ったり、それはまぁフィクションというかファンタジーなんだからいいじゃん、と思われるだろうが、舞台が「東京」という現実に存在するものであり、細部まで東京を描写しているからこそ、そのある意味での「非現実さ」という部分が気になった。

この行動は、帆高に感情移入できていたら「そこまでして陽菜を求めるなんて…!」となるだろうが、序文で述べている通り僕は帆高(の声)に感情移入できていなかったので、より一層気になった。

ラスト、崩壊してしまった東京という都市を目の当たりにして、それでも陽菜を求める方を優先した帆高に、最後まで感情移入することはなかった。いや、確かに「世界の崩壊」と「一人の女性」を秤にかけて、選択した「一人の女性」というものに価値があることは理解できる。「君の名は。」では、「世界の崩壊を食い止めた代償」が「相手を忘れること」であったのに対し、本作では「相手を手に入れることの代償」が「世界の崩壊」である。人の命と世界、どちらを取るか。そんな、ある種究極のテーマでもあるが、比較的描かれているテーマでもある。

そういう着地点になったことに、なんだか言いようのない気持ちになる。世界が崩壊しても、それでも共に生きる事を選択した二人。それは、絶望の中での希望ではあるが、そこに至るまでの過程において、本当にそれを選択しなければいけなかったか、ということの肉付けが足りなかったように思う。

思えば、中盤にかけての展開は、「君の名は。」に比べてちょっとスピード感が足りなかったような気がする。「祝祭」に乗せて場面が次々に展開していくのは、「前前前世」でのそれと同じような感じではあるが、なんというか、楽曲の差もあるし、「これからどうなっていくんだろう…!」という期待感も薄かった。それは捉え方の問題かもしれない。大きな軸を持っていた本作において、そこはあまり重要ではないのかもしれない。だけど、序盤から中盤にかけて、この物語で起こることが察せた僕にとって、あの場面展開はダラけた。

楽曲の魅力でいうと、三浦透子の声はすごく好きだし、「グランドエスケープ」はすごくいい。実は「前前前世」はあまり好きではなく、でも映画では効果的に働いていた。今回のRAD楽曲は、そこまで(「スパークル」や「なんでもないや」ぐらい)好きな楽曲ってそんなになかった。なんだろう、この差。もちろんRADの楽曲ってクオリティは高いし、映画に合わせて監督と膝を詰めて作った楽曲たちだから、物語の展開に合っているはずなんだよね。でも、そこまで印象に残った楽曲ってなかった。

世間では「『君の名は。』に対して中指を立てた」なんて言われている、いわば挑戦的な作品なんだろうけど、うーん、パーツだけ見るとすごくいいのにそれらを組み合わせた時に生まれる違和感を最後まで拭えなかった、という感想になってしまうな。

そういえば、本作には「君の名は。」の瀧とか三葉、四葉、てっしー、さやちんなどが出てくるし、「言の葉の庭」からの付き合いである花澤香菜も出てるし(「君の名は。」では「ユキちゃん先生」で登場)、その他にも自身以外の監督作品のオマージュが多々出てるみたいだけど、こういうのは「作家性を高めている」と言うのかな?どう評価していいのか分からないけど、オマージュを(よほどのアニメファン以外に)それと気付かされずに配置できる、作品内で重要なキーパーツとして使用できるぐらいの技量を新海誠は手に入れた、とは見てもいいのかもね。

前作があれだけヒットして、本作は様々なところでタイアップがあって、期待値がものすごく上がっている人に向けてこの作品を提示できる新海誠は、ものすごく肝が座った人だな、とは思った。もちろん今回も数十億円(もしかしたら百億円ぐらい)の興行収入が見込まれるわけだけど、実績を出している監督って強いな。単なる数字だけを追い求めるならもっとやり方はいくらでもあるんだろうし、それでも新海誠が「やりたいこと+売れる」=「面白い」と思える作品を作ることができるのは、アニメーション界におけるグッドニュースなんだろう。

自分が考えた事を整理するために、もう一度ぐらい見たいけど、どうだろう、見に行くかなぁ。それより、過去の新海誠作品を見て「本作が自分に響かなった理由」を考察したい気もする(ちなみに過去作では「言の葉の庭」が一番好きで、某映画評価サイトにて100点付けた)。

円盤は買うだろうけど、積極的に見るか、というと、うーん。あ、作画とか背景美術とかはすごく良かったですよ。それだけでも見る価値はあったかな。

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2回目鑑賞時、1回目には気づかなかったことが結構あった。

須賀のことだ。

1回目の時、須賀は「大人の立場から意見する人」だと思っていた。実際そうなのだけど、劇中シーンで何点か気になることがあった。

重ね付けした(恐らく)結婚指輪がクローズアップされるシーンが何点も。劇中で奥さんは「事故で(亡くなった)」とされているので、奥さんのことを忘れられない人、という、単なるそれだけの捉え方もできる。

しかし、それなら1回だけで十分ではないか?なぜ何回もクローズアップする必要があったのか。それは、多分物語に重要なシーンだったからだ。

帆高は、陽菜に贈る誕生日プレゼントに指輪を(凪先輩の勧めもあり)選択する。そして、実際に渡す。それは、陽菜が彼岸に行ってしまった時に落下し、地上へと落ちた。

その後、帆高が陽菜に3年後再会する時、その指輪を持っていく。

一方の須賀はどうだったのだろう。

奥さんは「事故」で亡くなっている。既にこの世にいない人。だから、その人が残しているものを着けている。こう見れば、さっきも言ったように「奥さんのことを忘れられない人」という事になる。だけど、恐らくそうではない。その「事故」がなんだったのか。そこを考えてみる必要があるだろう。

劇中で、「帆高と須賀は似ている」とキャラクターによって何度も語られる。これを「100%の晴れ女」である陽菜に惹かれる帆高、という観点で見れば、須賀の奥さんは、晴れ女の力を持っていたのではないか。その力を使っているうちに、自身の体の許容量を超え、亡くなってしまったのではないか。そんな奥さんに、須賀は惹かれていたのではないか。

帆高が陽菜に(最終的に)渡せた指輪と、渡せたけど亡くなったことによって宙に浮いた指輪を重ねづけする須賀。

劇中で、須賀はこんな事を言っていた。

「人柱一人でこの異常気象が終わるのなら、俺は万々歳だけどな」

これは、過去に同様の事を経験しているからこそ出てきたセリフだったのはないか。

帆高のセリフでこんな物がある。

「みんな何も知らないで!陽菜さんにすべてを押し付けて!」

帆高はまだ16歳。大事なものがなんだか分かった時、圧倒的に陽菜を求めてしまった。それが、世界の調和を崩してしまうことであったとしても。

須賀が「大人になると、大事なものの順番が入れ替えられなくなるんだ」と言っていた。これは、大人になった須賀が、世界の調和と妻との命を秤にかけた時に、世界の調和を選んだのではないか。

陽菜が彼岸に行った後、東京に久しぶりの晴れがもたらされた時、刑事が須賀の事務所を訪ねてきたことがあった。そして、刑事が話している時、須賀は涙を流していた。流す理由など全く無いように見えたが、さっきの話を当てはめると理由が分かる。

陽菜が晴れ女の力を持っていて、人柱となって彼岸へと旅立った。そんな話を聞いて、自身の妻を思い出したのではないか。無意識のうちに流した涙。それは、心に残っている妻の欠片がそうさせたのではないか。

そして、警察から逃げ出した帆高を待ち受ける須賀。須賀は、大人の立場で帆高を止めようとする。でも、結局は彼岸へと帆高を送り出すような行動を取る。これも、前段で語ったようなことがあればこそ、「止める」→「送り出す」という行動の変化があるのではないか。

3年後、帆高と会った須賀は「世界なんて、最初から狂っているんだから」というようなことを言った。それは、罪の意識を持った帆高を救おうとして言った一言なのかもしれない。自分には出来なかった、愛する人を選択する、ということに対しての、須賀なりの餞別の言葉。

須賀、という人物に着目してみると、この物語の深みがより一層増す感じがする。物語に深く関わる第三者、そして大人の視点。

もちろん、色んな所に意味はあって、それを見逃してる、あるいはそもそもその意味に気づけていないということはあるだろうけど。

というわけで、3回4回と見たくなる映画だということでした。