ナリア

天気の子のナリアのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
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☆‐大丈夫

〈貴方にできることはまだ〉
前作『君の名は。』のレビューでは数字を主軸に書いてみた。
何も数字や図形に意識を囚われた訳ではないし、それで全てを語れるとも思っていない。だだ“評価”するにあたって語りたいことがありすぎて語り尽くせないと思ったあげく、数字や図形に論点を絞った訳だ。
そう、僕の悪い癖。語り尽くせない笑
今回も例によって語りたいことが多すぎる。先に謝罪、このレビューくどいよ笑

それでも、とりあえず今回の切り口というか論点を定めたい。
「Weathering With You」
今回はサブタイトルの和訳について考えを深めたい。

映画を見終わって、お茶をしながら話の流れで受験勉強の話題になった。
僕はといえば受験生時代、英語はほとんど勉強しなかった。というか捨てていた。
何なら数学も。
国語に至ってもちゃんと受験勉強したのは多く見積もって一ヶ月くらい。毎日のようにレンタルショップに通ってアニメを漁る日々。浪人してまでしてそんなことしてる奴なかなかいない。受験自体を捨てていた。
帆高が東京に逃げたように、僕は液晶の世界に逃げていた。
言い訳はこのくらいにして、白状するとスクリーンにバン!と出てきたサブタイトルを僕は全く理解できなかった(恥ずかしながら帆高が読んでいた本についても同様)。何なら「Weather With You」“あなたと天気”(なんだそりゃ?笑)だと思っていた。識字もまともにできていない。
ということで早速、グーグル先生に頼ってみる。要点はWeatheringってなんだ?ってこと

Weathering ー 風化

なるほど風化かー。
ちなみにWeatherには動詞の意味で“乗り越える”って意味もあるらしい。なんだか作品としてはこっちの方がしっくりくる。
「あなたと乗り越える」
んー。つまんない笑(和訳としてね)

ちょっと論点をずらそう。
昔、不眠症の気があることを自覚し始めた頃。今日という時間が地続きで明けていく感覚にさいなまれていた頃。
天気、もとい天気予報というものについて考えたことがある。
たぶんあの頃、僕は天気予報に執着していたのだと思う
なぜ人は天気予報を見るのか?
ウェザーニュースって一体なんなんだ?
予報なんて不確定なものを人々は何故か、一日の終わりや始まりに眺める。
実際、それが当たっても外れても、多くの人にとっては災害レベルでない限り支障はないはずなのに。けどその“多くの人”が天気予報を眺めている。
きっとそこにはもっと大きな役割りがあるはずだ。
天気予報でもっとも重要なのは“明日”の天気だ。人は明日が不安なほど天気予報を気にする。
僕もそうだった。明けない今日という感覚と未来に対する不安。それらを払拭するために天気予報を無意識に眺めていた。「ああ、ちゃんと今日は昨日の明日だ」と思えた。そしてその先にまた明日があることを確信できた。
たぶん人々は、明日がちゃんと来ることを確認するために天気予報を眺めている。今日を明日を生きるために。
日々の生活のなかで明日が来ないなんて馬鹿げた不安は、せめて忘れていたいから。僕らは天気ひとつで明日に思いを馳せることができるのだ。希望も絶望も。
天気予報が僕らに伝えること、それは雨とか晴れとかの前提に“明日”がちゃんとあるってこと。
それは当たり前を祈る僕らに、まるで呪術のように寄り添っている。

さて、Weatheringについてちょっと宙ぶらりんだけど先に進もう。
さしあたっては「With You」についてだ。
with you、あなたと。…あなたと、あなたと、あなたと…
つまるところ“関係性”の話だ。

冒頭にもどるが、前作『君の名は。』について僕があれほど執着した理由は一点に尽きる。
「こんなの僕の好きな新海作品じゃない」
ってこと。
単的に言えばラストが気に入らなかったから笑
二人の関係性を美しくも残酷に描いてきた新海作品の虜だった僕にはあのラストがハッピーエンドに見えてしまったから。「見えてしまった」っていうのは、まーそういうことで笑、結果的に僕は新海が残してくれた解釈の余地みたいなものに拍手喝采した訳だけど。
つまり、三葉と瀧のカルデラの淵での儀式は成功していたのか?ってこと。二人が入れ替わるというギミックと、カルデラ(円)という他の新海作品と繋がるモチーフを巧みに用いて新海は様々な可能性を示唆してくれていた。更には二人の神聖性は山手線内でも有効か?ってことも関わってくる。
東京に神聖性は宿るのか?
今作でそんな答えが得られたらいいな、なんて考えながら劇場に足を運んだ。
だから冒頭の電車の音には胸が踊った。

結論から言おう。
二人が決めればいい。笑
陽菜自身が天気を世界を内包し(ていると思っ)ていたように、僕らは僕らの視点でしか世界を眼差せない。そこには誰にも犯せない領域が確かにある。
犯そうとすれば陽菜が求めた帆高の眼差しさえも否定しかねない。それは作品を根底から否定しかねない。そういう見方はしたくないと思えるくらいには美しい作品だったから。
誰かの眼差しを求めること。それは僕たちが現実を生きていく上で必要不可欠なことだ。
僕たちは鏡に写った自分の姿を本当の自分の姿だと信じ込んでしまった瞬間から、もう、自分で自分の実像を捉えることができない。言葉で語ることしかできない。
だから他者の眼差しに写る自分を求め、他者の言葉(役割りや評価)を求める。
陽菜がヘリポートで語ったように、彼女にとって“100%の晴れ女”という役割り(他者から眼差される像)は、大きな眼差しを失った(母の死)彼女に久方の安らぎを与える。その一方で彼女はその眼差しの危険性をも感じてもいる。だから完全にその役割を肯定することができないでいる。
そう、彼女にとって100%の晴れ女という像はあまりに大きすぎる役割りであり評価だった。言葉で語られ過ぎる存在だった。
言葉。それさえも実像を捉えれない僕たちが用いる代用品でしかない。
この問題は正に現代的だ。SNSや評価サイト、そこに羅列された言葉で僕たちは世界を捉えようとする。
実際、その後100%の晴れ女という役割りは報道を通しネットや世間で語られる象徴に成り果てる。
象徴の眼差しが強くなるにつれ、彼女の実像(身体)は儚く揺らぎ始める。
帆高の前でバスローブを脱いだ陽菜。
「どこ見てんのよ」「陽菜さんを見てる」
彼女に必要だったのは最初からこの一言だったのかもしれない。その帆高の言葉に陽菜がすがることができれば、あるいは強く信じることができれば、彼女は消える必要はなかったのかもしれない。
けど陽菜は帆高の「この雨が止んでほしいって思う?」「――うん」という言葉を聞きとどける。
男ってホント馬鹿。笑
翌朝、晴天の空の下で帆高は憎悪する、激怒する、後悔する。
陽菜に100%の晴れ女という象徴的な役割を押し付けた社会に人々に、そして何よりも15歳の少女の語る言葉を鵜呑みにし、彼女の実像を捉えきれていなかった自分自身に。
そして彼は駆け出す。言葉では語り得ない世界で再び、いや今度こそ彼女を見つけだすために。彼岸へと。
舞台は上空の“円”上。
これもイヤというほど目にしてきた新海作品の象徴だ。
二人はそこから飛び降りる。落下する二人の軌道は二重螺旋を描く。
美しい。
地上に舞い降りた二人の姿を、もはや誰も語り得ない。他者が語る必要などない。僕たちにできることは二人を信じる(もしくは疑う)ことだけ。帆高が目差す陽菜と、陽菜が目差す帆高がそこに居れば…だから二人が目差す世界は二人が決めればいい。
そこには彼らだけが知ることを許される世界が存在する。
こうして二人が眼差す世界は決定的に形を変える。

3年後。
それでも人は疑ってしまう生き物で、帆高は不安になる。世界は元から狂っていたのか、元の姿に戻っただけなのか?
二人の眼差しはまやかしだったのか?
陽菜は今どんな眼差しで世界を眺めているだろうか?
あの夜誓ったように、二人でこの世界を、明日を生きていけるだろうか?
不安を抱えたままあの坂道を登る途中で帆高は陽菜を見つける。
今度こそ18歳になろうとする陽菜は、それでも強く世界に祈っていた。
帆高には言葉にならない陽菜の祈りが、きっと聞こえたはずだ。
そして、それは帆高の決意になる。
これは二人だけの“言葉”だ。

「Weathering With You」
“君と明日を生きる”



(↓コメントにてつづく)
ナリア

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