まさか

天気の子のまさかのネタバレレビュー・内容・結末

天気の子(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

『君の名は。』が社会現象にまでなった新海誠監督の最新作。天気の巫女の説話をもとにしたファンタジーで、祈ることにより天気を操る(特定の範囲の空を晴れにする)ことができる「100%の晴れ女」天野陽菜と、彼女に心を寄せる森嶋帆高のラブストーリーだ。

いつもと変わらぬ夢のように美しい画面と壮大な世界観に引き込まれて、一瞬もダレることなく最後までスクリーンに釘付けにされた。そして、煌びやかな画面の背後に埋め込まれた批評性に心打たれた。

物語の核心部分とは少しずれるが、本作では何よりもまず登場人物の身の上が今の日本社会の有り様を象徴している点が印象的だった。

ヒロインの陽菜と、大人びた弟の凪には両親がいない。陽菜はまだ15歳(周囲には18歳と言っている)で、弟は小学生だ。母親は1年前に病気で亡くなった。父親は家族を捨てたのか行方がわからないのか、物語では触れられていない。2人は小さなアパートで肩を寄せるようにして暮らしている。もう一人の主人公、帆高が身を寄せる編集プロダクションの社長である須賀は早くに妻を亡くし、ひとり娘を妻の親に連れ去られ、一人暮らしをしている。

そんな人間たちの中に帆高が現れることで、寂しい者どうしの疑似家族のようなものが姿をあらわす。そのつながりは、田舎(小さな離島)を捨てて東京に出てきた帆高自身にとっても大切なものになっていく。だからこの物語は、陽菜と帆高のラブストーリーであると同時に、もっと大きな愛についての物語にもなっている。

彼らは血の繋がらない者同士で新しい形の家族を作ろうとしているようにも見える。血縁や地縁による人間関係や、従来型の家族の有り様が崩壊しつつある現代日本の都市で、人はどのように人と結びつくことができるのか。新海監督にはそのような問題意識もあったのではないか。

もう一つのテーマは「公」を捨てて「私」を貫こうとする(=自分にとって大切な陽菜を救おうとする)帆高の生き方、考え方だろう。

降り続く雨に沈む東京に、天気を操る力を使うことで青空をもたらした陽菜は、しかし天候を回復させることと引き換えに「人柱」として少しずつ身体が透明になり、ついには天の世界に上って帆高の目の前から消えてしまう。

1人の少女が自らを犠牲にして天気を回復させたことも知らずに、街行く人々は快晴の空に歓喜する。陽菜を失った帆高はそんな状況を苦々しく感じながら強く思う。こんな犠牲はおかしい。人々に青空の喜びをもたらすことと引き換えに、陽菜1人が犠牲になっていいはずがない、と。

やがて帆高は雲上の水魚の舞う世界に上り、そこから陽菜を連れ戻すことに成功する。そして、自分が地上に戻ったら天気が暗転するのではないかと心配する陽菜に向かってこう叫ぶ。「もういい! もう二度と晴れなくたっていい! 天気なんて狂ったままでいいんだ」。

劇場公開前に新海監督は「こんどの作品は賛否両論あるもの、というか批判されるものにしようと思った」と語ったが、実際に物語の終盤で帆高がとった行動(公を捨てて私的な幸せを選び取る)には批判もあるらしい。

だが、たとえフィクションに対する素朴な感想だとしても、公(不特定多数)の幸福のために私(特定の個人)に自己犠牲を求めたがる人たちがわずかでもいるということに、若干の違和感を禁じ得ない。個人的には公の幸福のために自分の身を差し出すなんてことは、まっぴら御免だ。

公のために個人に自己犠牲を求める人たちは、自分以外の誰かの自己犠牲が欲しいのだろう。犠牲になるのは他人であって、決して自分ではない。そう確信するからこそ、一部の人たちは他人に自己犠牲を求めようとする。新海監督は世間に浮遊するそんな空気を嗅ぎ取った上で、敢えて帆高に「私」を貫かせたのではないだろうか。

本作の評価に関してもう一つ気になることがある。劇中で父親の影が薄く(=帆高が乗り越えるべき壁が低く)、なおかつ物語の展開が御都合主義的だという批判があることだ。どうやら新海作品には過去にも同様の批判があったらしい。

だが、この指摘は的外れな気がする。本作には、帆高の前に立ちはだかる壁として須賀がいる。初めは庇護者として現れた須賀は、物語の後半では時に帆高の行動を妨害する側に回る。警察署から脱走した帆高にすぐに戻るよう説得したり、陽菜を助けに行こうと廃墟のビルの屋上を目指す帆高を止めたりする。帆高や陽菜を補導する警察も物語構造上の象徴的な「父親」と解釈することができる。

それらは、古典的な物語に見られるような通過儀礼としての「父殺し」の対象として弱すぎるのではないか、という指摘も分からなくはない。

ただ、その弱さはまさに今の日本社会における父性性の儚さをそのまま映しているのだと言えまいか。なぜなら、現に今の日本では父親は不在と言ってもいいからだ。物語の作者が、ありもしないものを、さもあるように描くのは誠実さに欠けるだろう。

小説でも映画でも漫画でも、昭和の時代までは主人公が父親(的な存在)を乗り越えていくプロセス(=父殺し)を物語の基本構造とする作品が少なくなかったが、現代ではその手は使えない。

戦後の学校教育は、父親的な権威を否定することを推奨してきた。あからさまな競争を廃し、周回遅れの生徒にも頑張ったで賞を与え、結果よりも過程の大切さを説き、体罰を十把一絡げに一掃してきたのではなかったか。そのようにしてこの社会から徹底的に父性性を排除してきたはずだ。

だから、オイディプス王が倒したような強い父親はもはや日本にはほとんどいない。いてはいけない。したがって現代を描くために父殺しのモチーフを持ち出すと、単に古臭いだけでなく、嘘を描くことになってしまう。

では、ある種の成長物語を創るときに父殺しのモチーフを使えないとしたら、何を持ち出すべきなのか。そこで新海監督が出した結論が「世間に反旗を翻す」ことだったのではないかと推察する。したり顔で「常識」を押し付けてくる世間に、毅然としてNOを突き付けること。それが父殺しに代わる通過儀礼になる。

ここで言う世間とは、公のために自らを生贄として差し出せと強いるような存在である。自分は傷つくことのない高みから、正義を盾にそれを命じる存在である。

軽やかに正義を口にしながら自らは決して身を挺して行動を起こそうとしないナイーブな連中。そういう連中が意図せず作り出している「正義を擬態した利己的な空気」に抗い、敢えて目の前にいる陽菜1人を救い出すことこそが、帆高を人として成長させることになる。

だから本作は、今までになかったタイプの新しい成長の物語と言えるかもしれない。同時に、私たちの社会に時折顔を出す歪んだ集合意識への、新海監督の静かな批判の表現とも読み取れる。

最後にもう一つ、エンディングのシーンで帆高が口にする「僕たちは大丈夫だ」という言葉について。これにはネット上でも釈然としないという声が少なくない。だが、この言葉を「東京は水に沈んだけれど、そんなことは問題ではない。だって僕たちは大丈夫だから」と解釈するのは無粋ではないか。

確かに帆高は、大勢の幸福を捨てて自分と陽菜のための幸せを選び取った。だから帆高の言葉をそのまま受け取れば、他者の幸福なんてどうでもいいという含意があるのかもしれない(し、無いかもしれない)。

しかし、である。そのことと、物語の受け取り手が帆高の言葉をどう解釈するかということは、別の次元の話だ。物語とは、最後の最後はそれを受け取る人間が自分で作るものだからである。

僕には、帆高と陽菜はこう考えているように思えるーー祈ることで天気を変える能力を失っても、祈る気持ちがあればそれで十分ではないか。その気持ちがあれば世界を少しずつ変えていける。僕たちは大丈夫だ、と。
まさか

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