QTaka

AI崩壊のQTakaのレビュー・感想・評価

AI崩壊(2020年製作の映画)
2.7
エンターテイメント映画のお手本か。
初めから終わりまで、安心して楽しめる。
.
キャスティングの妙なのか。
夫婦役の#大沢たかお、松嶋菜々子の二人。
その弟に賀来賢人。
研究者としての姿は、素敵でしたね。
彼らの医療AI『のぞみ』が”White”だとすれば、BLACKなAIが警視庁の『百目』。
この辺は、ビジュアル的に明らかに使い分けていましたね。
医療AI『のぞみ』のサーバールームが、重要な場面として登場しますが、この白い布を纏ったような造形は、一つのメッセージを持っていたように思いました。
一方の犯罪捜査用AI『百目』は、近深くの秘密の部屋、それは防空壕か、秘密基地かという風態。
けっして、正義とか誠実とかいうイメージではなかったですね。これも上手い表現でしたね。
その警視庁のAIを設計した天才科学者の岩田剛典さんの悪そうな風態が明らかすぎ〜だったのが…
この事件を捜査する側に、AIとか科学技術とか全く無縁な感じの刑事役が登場する。
三浦友和さん、そして相棒に広瀬アリスさん。この二人が、いい味を出して物語が進む。
大きく分けてこの3つ(AI『のぞみ』、AI『百目』、凸凹バディのデカ)のグループが、それぞれに物語を進めて、絡み合う。
.
映画の初めに、物語の初めのAI研究に全身全霊を注ぐ若い研究者たちの姿が描かれる。
そして、その二人が結ばれ、一人娘を得て、この物語が始まる。
この導入のエピソードを丁寧に見せることで、観客はこの物語に乗れるのだろう。
発達したAIが導入された社会がこの映画の舞台で、そこから始まったのでは、おそらくみんなついていけなかっただろう。この導入があって、初めて近未来の世界に入っていけるのだ。
.
と言っても、この近未来社会。現代社会と表面上大きな違いはない。
おそらく、生活している意識も現代と大差ないだろう。
ところが、その裏で動いているデータ社会が、現代と比べて格段に管理され、監視されていることが大きく違う。
この映画の主役である医療AI「のぞみ」は、ありとあらゆる個人情報を管理している。
それは、”健康””医療”の名の下に行われたことであり、おそらく市民が認め、求めたものとしてあるのだろう。
このAIは、ただ一つ、国民のほぼ全てのデータを管理しているというのも行きすぎた状況だ。
データを管理するにしても、あるいはデータを運用するにしても、寡占状態を招くことに問題があると思うのだが、その点についてこの物語では指摘していない。(いや、現状の実社会を見てもこの点は意図せず進行していることだから、制御不能の変化なのかもしれない。)
.
この映画には、もう一つのAIが登場する。
警視庁の犯罪捜査AI「百目」。
完成されたシステムも、運用によってデータを集め学習させなければ高度な判断はできない。
その欠点を劇中で曝け出すことになる。
その対応策として、国民のほぼ全てのデータを集めている医療AI「のぞみ」に目をつけたということなのだが…
.
捜査過程で、市中の様々なネットワーク機器をハッキングする。
カメラ画像とGPSデータから、足取りを特定する。
この電子機器のハッキングは、未来の話ではない。
今現在、この時も、PC、スマホ、ネットワークカメラ、などネットワークにつながるものは、ハッキング可能だし、あるいはそうやって情報を収集することも可能だ。
これらは、かつてエドワード・スノーデンの告発によって、アメリカ合衆国のNSAやCIAが実際に行なってきたこととして世に知られ、それは日本においても同じだという。
だから、この映画における人権無視の捜査手法は、あるいは今現在もすでに行われていることと思った方が良いのかもしれない。
この”人権”と犯罪捜査という切り口を物語の中に絡めたのは面白い。
そこで凸凹バディの刑事が活躍するという展開は、面白い。
.
一方で、この近未来社会の様子を全く違和感なく受け止められる現実を私たちは知っている。
例えば、ネットワーク依存の生活だ。
地震や台風などの災害時に、停電に伴う情報遮断が社会問題になっている。
まさに、この映画の中で起こったAI暴走に伴う混乱は既に経験済みの現実だ。
この映画は、未来の絵空事ではなく、今すぐそこにある現実でもあるということだ。
だから、この映画は身近に感じられ、楽しみやすいのだろう。
.
AIをいかに利用するのか。
AIに利用されるのか。
AIに支配されるのか。
これが本来のテーマだったのだろうが、はたしてそこに意識が届いただろうか。
むしろ、馴染みの都市パニックにTVの報道番組を見ている雰囲気だったのではないだろうか。
そうなると、この映画の本来伝えようとしたことが響いてこない。
”ネットワーク社会≒AI社会”という側面もある。
だから、”AI”が招く社会変化というものがはっきりしない。
この映画はそこのところに挑んだ映画でもある。
だから、今一度、AIと市民生活という関係で見てみると良いと思う。
.
バックグラウンドに流れる国家的陰謀。
これは、現政権の実際の制作にも通じる部分があるのか。
これは、政治論争をする場所ではないのかもしれないが、”人権”という部分で見ることも可能だ。
はたして、データ社会における”人権”とは何なのか。
既に私たちは、自らのデータを野放図に解き放っている。
その大切さや、守らなければならないものという意識もない。
むしろ、民間に自己データを開放することで、様々なサービスを受ける点で「便利だ」とすら思っている。
その便利さは、自らを切り売りした代償だということも気づかずに。
この、愚かさが、いずれ自らを縛り、様々な権利を失うことにつながるかもしれないのに。
そういう危うさについては、この映画では触れていない。
むしろ、AIによる、薔薇色のネットワーク社会を礼賛して終わっている気がする。
はたして、これからの社会を語る時に、希望を描く必要があるのだろうか。
今、描くとするならば、警鐘を持って、デストピアを描くことが必要だと思う。
.
とはいえ、エンターテイメント映画としては、近未来を象徴する”AI”の持つ危うさを捉えて、あるいは警鐘を鳴らそうとしているのだからすごいと思う。
しかも、面白い。
”メッセージ性”よりも”エンターテイメント”だろう。
これは、研究論文ではないのだから。
QTaka

QTaka