ーcoyolyー

ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜のーcoyolyーのレビュー・感想・評価

5.0
エンドロールのトップクレジットがジェシカ・チャステインなの事情があるんでしょうけど、というか事情がなければそうならないでしょうけど、これ一番居心地悪いのジェシカ・チャステイン本人じゃない?実質的な主人公ヴィオラ・デイヴィスで押し通すことはできなくてもせめてエマ・ストーンじゃないのかな、この場合はそこに来るのは。

という疑問符がつく程度に豪華キャストです。なんせヴィオラ・デイヴィスとオクタヴィア・スペンサーが親友設定ですからね。そこにアリソン・ジャネイも乗っかってくるわけですわ。フライドチキンとチョコパイとコーラ一気に出されてきちゃう。

でも私はこの映画を、この物語を、簡単にシスターフッドとは括ってほしくなくて。私が拒否ったところで浅薄にそういう表現で語る人いるだろうしそうしたいのもわかるけどさ、これは女の話じゃなくて人間の話なんだ。そのことをいついかなる時でも忘れてはならないのは、「シスターフッド」と括った瞬間にシスターにはなり得ない人が疎外されるから。当事者意識が失われてしまうから。違うそうじゃない、こういう問題はシスター以外の人にこそ伝わらなければならないし彼らを当事者に引きずり込まなければ真の解決はない。

そしてこれは過去の話ではない。
トイレをめぐる諍い。それはとても醜い。そしてそれは今シスジェンダーの女性がトランスジェンダーの女性を排除しようとする動きと見事に重なっている。
でもこれ女のコップの中の嵐の話ではなくて、何故シスジェンダーの一部女性がここまでトランスジェンダー女性を女性用トイレから排除したがるかというと、彼女たちが男たちに傷つけられてきたからです。私から見ると過剰反応している女性は性暴力に晒された人がとても多い。私も性暴力被害者だから、彼女たちがどういう現実を生きていて怖がっているのかは分かる。けどそれ攻撃性をトランスジェンダー女性に向けていいことでも決してなくて必要なのはその傷に対する適切な治療を受けることです。その恐怖は自分の中に抱えておくだけに留めなければならなくて、治療を受けている場所以外で外に出していいものではない。被害者だからって他人を傷つけていいという道理はない。何らかの加害者って大抵別の側面で被害者である経験がある人だし、諍いが起こるのは大抵被害者意識の暴走からだし、それは決してやってはならないことです。

で、根本的な解決法としては被害者を生み出さない、ということになるわけですが、ここで男性が大きく関わってくる。女性用トイレにトランス女性が入ってくることに怯えている女性がいること、その人たちは性暴力被害者が多数であること、そしてその加害者の大多数は男性ですから。

そこで「シスターフッド」という概念を持ち出すと男性と男性からの加害が透明化されてしまう。この物語内でも男性からの暴力は描かれている。そういうところを取り零してしまう。だから良くない。

メイドたちがずらっと居並ぶところに入るエマ・ストーン。あの時の心境ほんの少しだけどわかる気がします。

トランス女性に人々は簡単にホルモン療法の話をします。
でも私はある時気付きました、あの治療めちゃくちゃ大変じゃね?メンタル保たなくね?って。
何故なら私もホルモン分泌がめちゃくちゃで太平洋の真ん中で大しけの嵐の中を小舟で揺られてるようなメンタル揺れ揺れになって命からがら婦人科に駆け込んで薬処方してもらったことがあるからです。私はめちゃくちゃな状態を整えるための薬処方だったけど、トランスの人たちは何もないところに女性ホルモン大量注入してあえてあのめちゃくちゃな状態作り出すんだよな?これ地獄じゃね?と。

それを何気なく呟いたらその治療当事者の方々が何人か反応して下さいました。ある人は「治療の先輩に『死ぬなよ』と言われた」と。やっぱりメンタルの揺れが酷くて自ら死を選ぶ人も出て来るんだと。この人たちこんな声滅多に上げないんですよ、上げたところでホルモン療法の解像度低い人には理解できなくて余計傷つくだけだから。私が自分の治療体験を明かしたことでやっとこの人ならホルモン療法の辛さを理解できるかもしれないとそちら側からも歩み寄って明かしてくれたんですよ。嬉しかった、けど重かった。責任の重さは感じた。でも私のその程度の関わりなら嬉しい重みだった、で済ませることができる。

私と違ってあのシーンのエマ・ストーンにのしかかった重みは黒人女性十数人の人生全てを背負わなければならない重みだ。1960年代のミシシッピ州、アメリカ南部で。彼女はもう引き返すことができない。ルビコン川を渡らなければならない。あそこから逃げ出さないエマ・ストーン。生身の人間がお互いに対峙したもの。そこには気軽に「シスターフッド」とまとめちゃならないものがあります。

ヴィオラ・デイヴィスがまさにワイルドサイドを歩き始めたところ、清々しい姿勢でワシントン大行進に引けを取らない尊さに満ち溢れていたの、ああそうだよな、と思う。自分の誇りを歪めることをやめて「嫌なことは嫌」と言えるようになるとああなるよね、と思う。

私もちょっと方針の違いで揉めたことがありました、というか、それをやったら自分たちの今までの言動を裏切ることになるし、何より支えてきてくれた人の心意気を裏切り傷つけることになると付き合いきれなくなって適応障害を起こしてしまいました。その時私と道を違えた人たちは今現在も「社会の歪みと闘う人」というような扱いを受けて持て囃されています。でも内心は苦しいだろうなと思う。私を傷つけ今現在までずっと放置していながらそうやってチヤホヤされるの針の筵だろうなと。偽りの笑顔で取材対応するの苦しいだろうな。あたかも社会正義の側みたいな顔をして自分の加害を隠し続けているのは。
私は全てを失ってもうこのまま行くと生活保護カウントダウン始まってますけど、ああいう自分を偽る心苦しさはなくてその点では清々しく過ごせているし、ちょっとでも引っ掛かりや違和感を覚えたことをなんとかなあなあでやり過ごさずにきちんとキャンセルし続けるという道を選べている。そうすることで自分を好きになれる。なんかやっぱ自分に言い訳し続けるのは自分を嫌いになることだから、やめた方がいいね。自分の本心に素直になって嫌なことはしない、そうすると社会適応はできなくなりますけど別にそれでいいやとも思う。社会が私に合わせてこい、くらいの心意気でいいんだと思うわ。公民権運動ってそういうことでしょ?ヴィオラ・デイヴィスが私たちに教えてくれたことってそういうことでしょ?
ーcoyolyー

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