鰹よろし

クリムゾン・プラネットの鰹よろしのレビュー・感想・評価

クリムゾン・プラネット(2018年製作の映画)
2.5
 最初の有人火星探査船マーシャン1の墜落事故は如何にして起こったのか? 如何にして防げたのか? 人間とAIとでどちらが優先されるべきだったのか?

 事故を受け人間(デスク)とAI(現場)とで役割分担された無人火星探査船任務を軸に、ひたすらに人間と人間、人間とAIの問答が展開される。

 人間が如何に策を練ろうが、実地で探査するのはAIであり、そもそも火星という環境でそれが可能となるのはAIのおかげである。つまり人間はAIの補佐役でしかない、いや補佐役であるべきだ。

 いやいやそもそもAIを発明(開発)したのは人間であり、人間がいなければ彼らは生まれなかった。今火星探査が可能となっているのはAIの生みの親である人間がいたからである。AIは人間の手が及ばない場所をカバーしているに過ぎない。AIの方が補佐役である。

ざっくりとは、

 ・AIは人間の補佐であるべきだ

 ・人間がAIを補佐すべきだ

 ・AIが人間を支配するのだ

 ・いや人間はいらない

 規定や権利、信用。人間とAIとでどちらが?という優劣をつけようとする問題提起...、AIと人間との違いや隔たり故に生じる軋轢...。

 AIの明らかに人間よりも優れている面を描き出しつつ、どちらかでなければできなったこと、そして互いがいたからこそ可能となったことを通じて、AIの生みの親である人間という存在をまた見つめる。AIと人間の違いから生じる軋轢の一方で同じ人間同士にもまた見られる軋轢。

 人類の進歩に一役も二役も買った発見と発明の裏には今まで何が付きまとってきたのか。そして今回の騒動でこれからもそれが繰り返されるだろうことを垣間見る。それは競争という名の進化の促進と成り得るか、いや単なる足の引っ張り合いか...、最悪衰退の一途をたどることへの憂い。

 AIの行動(暴走)に対する危機意識は、人間の理解を越えているが故の人間という枠を出られないモノたちの進化の限界か、それともさらなる探究と飛躍の足掛けか。

 この作品は上位種を描くことでその帰結の先を見据え、ある種人間とAIとの共存のお話に見えるのだが、ノアの方舟を題材にしていることからもやはりその真髄は人間の行いの見つめ直しを図ろうということだろうか。

 人間とAIとの対立を経て、人間同士の対立を見つめる。そして拡大し続ける宇宙にその問題を広げてみることで、人類という枠並びにさらにそれを細分化した枠に執着し留まろうとし続ける人間という存在に還してみる。

 人類全体の飛躍・進化を目の前にしながら、それを隠匿・独占しようとしてきた(している)人間という小さな存在にいったい何を見出すことができるだろうか...


「ターミネーター」シリーズ...「2001年宇宙の旅」(1968)...「地球爆破作戦」(1970)...「ウォー・ゲーム」(1983)...「ノウイング」(2009)...「地球、最後の男」(2011)...「オートマタ」(2014)...「エイリアン:コヴェナント」(2017)...「インフィニティ 覚醒」(2018)...「オキュペーション 侵略」(2018)...「ジェネシス」(2018)...「UFO オヘアの未確認飛行物体」(2018)...
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