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『家にはいたけれど』に投稿された感想・評価

netfilms

netfilmsの感想・評価

4.2
 13歳の生徒が1 週間に渡り忽然と失踪し、あっけらかんとした様子で不意に戻って来たことは明かされるのだが、では少年が何のきっかけで戻って来たのかは定かではない。私は冒頭のウサギの描写から犬に移る場面で弱肉強食を想起したのだが、どうやらそれも違うらしい。タイトルの『・・・いたけれど』には小津安二郎を想起し、ウサギの皮肉の描写にはブレッソンを連想する。おそらくはアンゲラ・シャーネレクという作家そのものがドイツ映画の監督よりも小津やブレッソンやゴダールに入れ込んでいることは明白であろう。台詞を極限まで削ぎ落した物語そのものはグローバル資本主義からの脱落を暗に示した物語にも見えるが、実際のアプローチはまったく異なる。『ハムレット』のテキストが饒舌に語る家族の物語というのがそもそも難解で要領を得ないのだが、今作に横たわるのが父性の不在である。ウサギと犬の弱肉強食の関係を見守るロバもまた、欲望の対象にはならない屍を目の前に戸惑う(ように思える)。2年前に夫を失ったという母親の嘆きが体現する苦み走った苦しみが突如憑依したのだとすれば、彼女のヒステリーの餌食となった子供たちがひたすら気の毒なのだが、彼ら自身のルックがひたすら形を変える様は奇妙な驚きに満ちる。スーパーのバックヤードで詰られた少年は果たして彼と同一人物だったのかは定かではなく、王冠を被った彼の物腰だけが不意に浮かび上がる。
初めてのアンゲラ・シャーネレク。不思議な作風だった。言葉少ないストーリーの合間に、学校で生徒たちが演じる「ハムレット」が差し込まれている。教室から抜け出したハムレットは街に現れる。その意味もよくわからなかったが、メインストーリーであろう女性の孤独がキリキリと伝わってきた。

行方不明の息子が見つかった。舞台演出家の夫が2年前に亡くなった。自転車が壊れた。恋人には甘えられない。息子は怪我をしていた。幼い娘を怒鳴りつけてしまう…言葉少ないいくつかのシークエンスから、二人の子供を抱えた女性の焦燥感と孤独が痛いほど感じられる。

夫の墓で落ち葉に抱かれて眠りにつく。うずらが現れるこのシーンが印象に残った。死と同化したような静けさだった。
木漏れ日の中のうたたねはもっと死に近く不穏だった。
繭の中で時が解決してくれるまで眠り続けたい。

子供たちは母を癒そうとする。母もまた子供に還りたい。

冒頭とラストのオオカミ犬、ウサギ、ロバは女性の心持ちの三様を表しているようにみえる。

この痛み、アケルマンの「ブリュッセル1080~」で感じたものに近い。

深い孤独の穴に落ちたら、助かるんだろうか。





以下、独白です。スルーしてください。

連絡取れなくなっていた知人が5年前に亡くなっていたことを数日前に(調べて)知り、ショックでした。その数ヶ月前に会ったときの焦燥感や孤独の印象を重ねていました。死に向かう人は前も後ろも振り返らない。ハムレットみたいに悩まない。吸い寄せられていくんじゃないか。
アンゲレ・シャーネレク監督、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)受賞作品。

「ゴダールやブレッソンを想起させる省略の多い映像とミニマルな物語手法を特徴とする」(☆1)とあり、期待してみたが凄い。こんな作品みたことない。構図が周到に計算されてて建築的だし、静謐な筆致は不穏な様を呈する。冬の暖房をつけていないけれど日差しだけが当たっている部屋に11時頃いるような。
確かにゴダールとブレッソンを想起させる。『ハムレット』(!)の劇中劇を導入し虚実を混交させることは『パッション』を思い浮かべたし、手のショットや真実の現れはブレッソンだ。

本作は虚実を混交させて真実を現した物語だと私はみた。ファーストシーンでは、オオカミ犬がうさぎを追いかけて捕食することが捉えられている。それは監督の意図が介在されない自然のことのように思えるが、それをカメラに収めた以上作為はあるし、何より犬が食べる姿を映すショットは構図が人為的で美しすぎる。後の人間たちの「劇」とは全く関わりがないから何のシーンなの?と思ったが、虚構と事実の対立項を揺るがす象徴的なシーンと捉えれば納得いく。さらに言えば、オオカミ犬はうさぎを捕捉し、殺して食べるのだが、人間は捕捉し合って、親密さを獲得する。その生の営みを提示しているとも思える。

「捕捉」の描写は多々ある。母は怪しいじいさんから自転車を購入するのだが、案の定すぐに壊れて、時間を拘束される。映画監督とは偶然出会って、彼の自転車の足を止めて、映画についての口論に発展する。その口論で虚実についてが語られ、それが本作のテーマでありシャーネレクが語りたいことだと思うのだが、このように大事なシーンでは「捕捉」が描かれている。
さらに本作の最も重要なテーマである母と子の関係についてもそうだ。ファーストシーンの次では母が子を捜し見つけて足にしがみつく動作が確認できる。娘が台所を無断で使用し、料理をつくったことでプライドを傷つけられたと母が癇癪を起こす時は、子どもたちが母に寄り添おうとする。それで落ち着きを取り戻すが、子が度を過ぎた遊びをしてグラスを割った時は、捕捉ではなく家を追い出す。けれど後に、娘とはプールサイドで抱擁する。

彼らが捕捉し合うとき、それは愛したり気にかけたりして親密さが現れる瞬間ではある。しかしその瞬間はすぐに消えて、口論や不和に発展してしまう。だから彼らが零度の距離で抱き締め、捕捉し体温に触れあっても「冷たい」。

運動の停止≒捕捉で現れる真実はとても残酷だと思う。確かに母の関係は上手くいかない。おじさんとも映画監督とも子どもたちとも。そして恋人とも。彼女がベットで彼の顔を撫でても、彼はすり抜けて家を出て行ってしまうのだから。

けれどその真実の現れを正しく受け止めた孤独の果てで「新たな諸関係を取り結ぶこと」ができるはずだ。それを親密さと呼ぶことができるなら…

物語は再び動物の世界へ。私たちは親密さを捕捉しようとする真実の生へと投げ込まれている。

(☆1)「下高井戸シネマ アンゲレ・シャーネレク特集ページ」(http://www.shimotakaidocinema.com/schedule/tokusyu/toku-3.html)

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