しの

システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのしののレビュー・感想・評価

3.8
子どもの命をありのまま体感する映画というと聞こえはいいが、社会のどの枠組みにも収まることができない少女はひたすら苦しそうだし、彼女になんとか寄り添おうとする周囲の大人もどんどん疲弊していく。それはまさに“ありのまま”のどうしようもなさを体感するということだ。

癇癪持ちの少女を玉虫色に描いていて、もはや演出とかではなく、彼女の実存がもたらすエネルギーと不安定さをそのまま画面に刻印している感じがする。たとえば母親の家へ帰ってきてしまう場面。まず弟妹と出くわし、母親が現れ、再会を喜ぶも警察沙汰に……というシームレスさ。彼女と母親が隔離されているのはこういうことになるからだと良く分かるし、それは施設の職員たちが彼女を「家に上げること」をタブーにしていることの重みに繋がってくる。彼女を救おうと距離を詰めるほど、彼女にとっての依存対象へと変化してしまい、傷付けあってしまうジレンマ。

本作はこのジレンマをひたすら体感させてくる。中盤、森の中での隔離療法は、彼女のなかの「ノイズ」が消失していく安らぎがあるが、その隔離生活のなかでもふとした瞬間に今保っている平穏が崩れることがあるし、かといってその平穏さを保ち続けても彼女のためにならない。隔離生活のなかで少女は非暴力トレーナーと交感していくが、そこで距離を詰めすぎた結果、終盤の悲劇に繋がっていく。彼女が彼を独占したいがためにボソッと呟く一言がめちゃくちゃ怖い。もちろん、それは純粋さ故なのだということは分かるが、同時にちゃんと怖いと思える。この体感が重要だと思う。

つまり、この少女は絶対的に守られるべき存在で、愛されるべき存在なのだが、しかしそうすべき人にとって彼女は「怖い」他者であるのもまた間違いないということだ。そんな他者と他者が家族になるとは、「家に上げる」とはどういうことか。生半可な覚悟では向き合えない。あの母親は酷いが、咎められない。

ラストはタイトルバックと対になっている。閉じ込められた少女は、システムの外側へ飛び立とうとする。しかし劇中で言われている通り、それは自分の首を絞めることでもある。

結局、どうすれば良いかの答えは提示されないが、本作で描かれている希望が唯一あるとすれば、「みんなが共に疲弊すること」そのものなのかなと思う。人と人が互いを想い合い、適切な距離感をはかるなかで、(観客も含め)全員が疲弊していき、それは袋小路の体感をもたらす。しかし同時に、その疲弊を分け合っているうちは希望があるともいえる。少女1人の生は社会の問題なのだということを、疲弊によって逆説的に体感させる作品だ。
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