3110133

イエスタデイの3110133のレビュー・感想・評価

イエスタデイ(2019年製作の映画)
1.3
卑劣としか・・・

ひとまずビートルズに関する小ネタで鑑賞者受けを狙ってるのは構わない。もっと掘れるはずだと思わなくもないし、愛を感じないと思わなくもない。それでもまあ、いいよ。

とにかく許せない卑劣さは映画の後半になってから顕著。

主人公ジャックはなにひとつ責任を負わず、いいところだけをかすめ取る。それも本来責任が生じるはずの立場によってはじめて可能になる力を使って。

主人公は、ビートルズの曲を思い出しそれを歌うだけでは劇中のような「社会的成功」は得られなかった。友人ややり手のマネージャーやエドシーランをはじめとした(それ以外にも劇中では描かれていない)たくさんの人々の協力が不可欠であった。もちろんそれぞれの思惑や不誠実さや商業主義的な不寛容さなどを挙げればキリがないかもしれない。でもそれが人間社会だろう。(マネージャーをステレオタイプな商業主義的で嫌な奴として演出の仕方じたいが不愉快。)

ジャックは無神経にそういった人々の思いも社会的責任も裏切る。
その人々の協力によってなしとげた社会的成功という力を使って。
その結果、ビートルズの楽曲はフリーだとか、みんなで歌おうなどチャンチャラおかしい。
もし、本当にそれを実現しようと思うのならば、ジャックも社会のなかで葛藤し格闘しなければならなかった。
(ビートルズの楽曲が本当に素晴らしいだけならば、はじめからそれらを匿名で公開すればよい。だが、もちろん主人公はそんなことではなく、自身のミュージシャンとしての名声を得るために、それらの楽曲を利用する。その行為自体が業なのだし、そのようにビートルズの楽曲を社会に位置づけた以上、その責任は生じているだろう。そこでいかに「生きるか」。それこそがアーティストとして、そしてこのフィクションを背負った主人公の物語ではないのか。)
恋人となったエリーへの対応も同じこと。最悪だ。
なんなんだよこいつ・・・。
いや、主人公が卑劣な奴でもいいのだけれど、それへの客観性がこの映画に皆無だということ。みんなその卑劣さを受けいれ、それでなんかハッピーって・・・。それはこの映画自体が卑劣だからだろう。

つまり、その卑劣さはそのままこの映画の作者にも言える。
劇中で言われていたように、もし、「アーティストとして成功するためには学校の教師などになってはだめだ」というのならば、主人公にそういった潜在的な可能性をなぜ救おうとさせないのか。(なにかの実現を数学教師という現実によって阻まれているかのように演じられるエリーを、やっぱ好きだわっていうだけで救ったとでも?一緒に子どもたちと歌をうたってそれで救ったとでも?)
まあ、それを描くのはこの映画の主題ではないし、一筋縄ではいかないテーマなのだろうけれど、それを言及しながらも、恋人となったふたりは子どもたちとオブラディオブラダを楽しく歌いましたとさ。
それでOK・・・とはならないだろう。
この映画は無責任にその問題に言及しつつ、安っぽい夢物語でお茶を濁す。

なにひとつ矛盾がない。葛藤がない。問題意識がない。
なんだか考えること自体バカらしくなってくる。

そして決定的なのは、ビートルズがいなかった世界を全く描こうとしていないということ。
想像力、創造力の欠如。
その世界を想像しようともしていないのではないか。直接的に影響を受けたオアシスがいないって、それで済むと思うのか?年老いたジョンに似た老人を出せば描けたとでも?

各々がビートルズのいなかった世界を想像してみればよい。
いまのようにわたしたちは音楽を楽しむことのできない世界にいるかもしれない。もっと早くに最終戦争を迎えていたかもしれない。
魂までもを管理されることへの抵抗力を失っているかもしれない。
隣人との言葉を越えた交流と和解が可能かも知れないという希望すら思い描けないかもしれない。ヨーコはもっとヤバい作品を発表して、世界は大混乱し、人間の精神は大変なことになっていたかもしれない。

たかがビートルズ。しかし、それをあえて芸術あるいは思想というならば、ある芸術作品、ある思想がなかったら、世界は決定的に変わっていたかもしれないのだ。ビートルズのいなかった世界。それは想像を絶し、想像したくもないものかもしれない。作者はその責任を放棄している。
作者は、ビートルズだけでなく、芸術や思想の力すら信じておらず、それへの愛などないのだろう。ビートルズのトリビアを散りばめたからって、それが愛などとは笑止。

ああ、それにビートルズの作品って楽曲だけ切り出して考えられるのかという疑問。彼らのパーソナリティや関係性や当時の社会情況や歴史や、そういった無数の要素が複雑にからみついたものとしての「ザ・ビートルズ」であって、その奇跡のような形が人間が生きるということなのだろう。もし、芸術作品≒生きることをそのように理解するならば、この映画のようにはならない。劇中で歌詞が変わったりしていたが、それこそが重要で、それをギャグのようには扱えないだろう。その時代や歴史や人間の関係性によって、ビートルズの楽曲が有機的に変質し、いま・そのときを生きる人々にとってアクチュアルなものとなったとき、本当に芸術作品として立ち現れるものとなりえるのだろう。そういった曲を作ることすらしなかった。
「歴史の逆撫で」にはそれなりの力が必要だろうよ。

ここまで卑劣なものを久々に観た。

ああ、あとインド系移民が主人公というポリコレ。イギリスには昔からたくさんのインド系の人々がいて、それは大切な事柄だし、主人公がそうで全く問題ないのだけれど、上記の感想を踏まえると、その選択も、そうしとけば情勢にあってるっしょという安易で無思想な社会迎合に思われてくる。
3110133

3110133