映画漬廃人伊波興一

ミッドサマーの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

ミッドサマー(2019年製作の映画)
3.2
ひとこと若い❗️
(若々しい)(初々しい)とかではなく、何の含意もなくただ純粋に若い❗️

アリ・アスター
 「ミッドサマー」

レビューは控えておこう、と決めこんでいた作品ですが今夏CS映画専門チャンネル「ムービープラス」にてA24特集の一本として放送され、二度目の鑑賞をしてしまいました。
これも何かの縁です。

処女作で圧倒的な支持と評価を掌中した若い作家の第2作目に接する時はいつも期待以上にその何倍もの不安が募ってきます。

眼に見えるほど凄まじい勢いで、モルタルの白い壁一面を覆いつくした蔦(つた)が、安普請に過ぎない家にさえそれなりの風格を与えてしまうように、処女作の賛辞により自覚的となった新人作家の趣味嗜好、審美眼の種が、虚飾にまみれて萌芽してしまう例が映画史には少なからず存在するからです。

実際、視覚的な細部をスクリーンの枠に相応しく審美的に統合するだけで成立する映画だって確かに存在しますが虚飾の下には当然(既存、実存)しかありません。

事実、この「ミッドサマー」で描かれている異教ペイガニズムの様相や、カルト儀式から棄老に至るまで、20年余でも映画を観続けてきた方ならことさら目新しいものではない、と気づいてしまいます。

さらに随所に挿入される人体決壊の場面も、暴力への感性がすっかり希薄化し、陰惨な側面に無感覚になりつつあるこの時代です。
お医者様でなくても、臨床実習で手術に立ち合う医療従事者の方々どころか、交通事故現場の処理に赴く現地作業員の方々にさえ、この程度では視覚的な驚きなどもたらさないでしょう。

集団ヒステリーの恐怖もドン・シーゲルの「白い肌の異常な夜」やビリー・ワイルダーの「地獄の英雄」サミュエル・フラーの「裸のキッス」の余裕ぶりには遠く及ばす、抜け出せない焦燥にしても勅使河原宏の「砂の女」どころか「カッコーの巣の上で」によってさえあらかじめこえられているし、巷で下世話な話題となった、あの性の儀式も我が国の石井輝男「徳川いれずみ師/責め地獄」や鈴木則文「エロ将軍と21人の愛妾」の迫力(❗️)前では一瞬で色褪せてしまいます。

普段あまり積極的にホラーを観ない私に、ハッキリと、イメージだけを決定的に優位に立たせていく、サイレントムービーのような豊かさを堪能させてくれたデビュー作「ヘレディタリー/継承」には、(出涸らし)と思われていた鉱脈に、それまで気づかなかった源泉が湧き始めた瞬間が確かにありました。

あの興奮は、やはりひとときの錯覚だったのか?

決してそんな事はありません。
「ミッドサマー」という映画がそれでも私を捉えて離さなかったイメージは、村の女性総出のメイポール・ダンスの場面。

あれはやはり理屈抜きに素晴らしいです。

皆が皆、同じように向ける同じ視線。あるいは同じ方向に同じように歩み、跳ねる歩調。
そんな光景は一見不自然ですが、そこがコミューンという特殊な空間であるのなら、彼らの群衆的な行為を(自然さ)としてではなく、誇張された(滑稽さ)(不気味さ)の側面として強調されていくに従い、やがて観ている私たちに、何かしら切羽詰まった必然性を抱えて迫ってきます。

それはまさに、主題や物語とは明らかに異質の(映画的な出来事)に他なりません。

アリ・アスター君、まだ35歳。ひとこと若い❗️
(若々しい)(初々しい)とかではなく、何の含意もなくただ純粋に若い❗️

おそらくイングマル・ベルイマンの世界観を意識したとおぼしき「ミッドサマー」にまとう北欧的な虚飾の蔦(つた)を根元から剪定鋏でばっさり断ち切ってくれた時、全てが口あたりのよいイメージに収まりがちな現在の映画状況に、口笛でも吹くような気軽さで再生の蔓(つる)を伸ばしてくれるのでは、と改めて期待してしまうのです。