光好尊

ミッドサマーの光好尊のネタバレレビュー・内容・結末

ミッドサマー(2019年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

ジャンル映画でない、特に本作のような難解な映画を理解するには図式に頼らざるを得ない場合がある(洗練された映画は随所に「考察」のしがいのある箇所がある)。

そこで、吉本隆明の「個人幻想(自己幻想とも)」「対幻想」「共同幻想」という図式を設置する。

吉本によれば、「個人幻想」と「共同幻想」は「逆立」する。いわば、「共同幻想」に頭が占拠されれば、「個人幻想」が縮減する。換言すれば、共同体という幻想に身を委ねると、自己という幻想が縮減する。

ダニーはクリスチャンとの恋愛関係(対幻想)に問題を抱えていた。ゆえに、自己に対する問題(個人幻想)に取り憑かれることになる。徐々に明らかになるが、ペレはダニー目当てで連れてきたと言っていい(諸々の考察を参照)。言いたいことは、家族を亡くし自己に不安を抱えたダニーをペレがホルガ村のメイクイーンにしようとしたということだ(家族はおそらくホルガ村の連中に殺害された)。

なぜダニーが選ばれたかと言えば、まずその理解のために、キーワードとして「共感」を挙げなければならない。クリスチャンは明らかにダニーに「共感」を寄せてなかった。ダニーとの記念日も誕生日も、妹への理解も全く欠けていた。人は「対幻想」から「個人幻想」へと傾くとき、逆説的だが次は「個人幻想」から「共同幻想」へと傾く。

ホルガ村の村民は他者の感情表現を真似ることで「共感」する。そして「共同幻想」へと開かれる。その風習に最も適するのがダニーだったのである。

ことほど左様に、本作の読解の仕方の一つに『共同幻想論』の参照がある。人はしばしば「個人幻想」や「対幻想」に問題を抱えた際に、「共同幻想」へと前進する(「関係の絶対性」)。

そして、ホルガ村の「気持ち悪さ」の一つは、「インチキ感」と言える。90年に1度の祝祭なんて嘘っぱちだし、ペレは生贄に捧げるために友人を連れてきた。この「カルト宗教感」は、上記の「共感」の仕方の「インチキ感」、つまりああいった仕方で共感するホルガ村民の「共同幻想」の「インチキ感」の中にある。
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