「難解な映画」の中にも①「理屈を超越した映画」と②「理屈が理解できないとツライ映画」があると思います。
前者は『2001年宇宙の旅』や『イレイザーヘッド』『アンダルシアの犬』あたりでしょうか。なぜそーなるのか解らん、どころか画面上で何か起きているか解らんレベルだったりしますが、理屈では説明のつかない凄まじい映像体験であるという興奮がまず先に来ます。理屈が解らなくても映画としての素晴らしさは揺るがない作品です。
『インセプション』『インターステラー』も一見、前者寄りに感じられますが、より理屈への依存度が高いという点で後者寄りと考えます。映像的な快感こそあれど、理屈が解らないと本当の意味で感動ができないようになっているように感じられるのです。
それはあたかも「ルールを知らないままスポーツ観戦をする」ことにも似ている気がします。華やかで肉体が躍動する壮観な様子は目を楽しませてくれますが、例えば「オフサイドって何だよ?」という知識の観客にとってはその競技の本当の面白さは見えてこないはずです。
だから、『インターステラー』の理屈(ルール)が理解できない僕は、同作の本質的な面白さに辿り着けていないのだと思いますね。感覚で楽しむのではなく、理屈を理解した者が楽しめる。それがノーラン映画の一面である、と。
ノーラン映画の考察を記したブログ、サイトが溢れていているのは、ノーラン映画のそういった特徴があっての話ですし、同時に「解らんが、それでも理解したい」人が多いことも物語ってますよね。
そして本作もまた、そういった特徴を持ったノーラン映画になっています。
劇中の台詞にあるように「考えるな。感じろ」?しかし、それは理屈を理解しないといけない映画が言う台詞ではないでしょうに。
それにその言葉は理屈を超越した存在こそが言えるのだと思うんです。だから、本作においては都合の良い感じに使われてしまった言葉です。