かるまるこ

TENET テネットのかるまるこのネタバレレビュー・内容・結末

TENET テネット(2020年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

はじめに謝っておきますが、長文です。
しかも考えが上手く纏められず、とてもだらだらしてますのでご了承ください。

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【007〈に成れ/を撮れ〉なかったものたちへの鎮魂歌】

もしもスパコンAIが西村京太郎時刻表トリックを考えたら多分こうなるだろうなってくらい複雑にこんがらがってて不親切で、退屈な物理学者の講義を聞かされてる気分になる。
人間が描けておらず、辻褄合わせのためだけに人物が存在している。
確かにそういう創作物はある(ミステリ、パズラー小説は大体そうだ)が、それは明かされた時に価値観が180度変わるような魅力的な謎が用意されているからこそ成立するのであって、今作はテネットの正体とか、肝心のアルゴリズムのアルゴリズムとかを一切説明せず、ブラックボックスに入れて全部ぶん投げちゃってる。

逆に、ヒッチコックやそれこそ007みたいに、目的を括弧にいれてマクガフィンとしてやるなら、そこへ到達する過程にこそ面白さがないとダメだが、一度来た道をわざわざ戻って伏線回収に勤しむというサスペンスもクソもない、とんでもなくつまらないルートを選択している。

伏線がキレイに回収される部分が称賛されがちだが、作劇的にみてそもそも伏線回収はそれほど難しいことではない。
観客は順行でしか物語を体験出来ないから驚くのは無理もないが、作り手は物語を常に逆行(逆算)で見るので、結果から遡って後から原因を挟み込むことなど造作もないことだ。
よって伏線回収はどちらかと言えば基礎的なテクニックだと思うのだが、問題はそうした基礎すら疎かにしている作品があまりに多いというだけ。
よくもこんな面倒臭い設定を大真面目にストイックにやれるなあと感心こそすれ、面白いかと問われるとそれはまた別の問題。

作為的な構図や加工を嫌うノーラン×ホイテマの即物的な撮影スタイルは、空撮や抜け感のあるロケーションにこそフィットすると思うのだが、今回は設定上、動くものを極力排除する必要があったため、狭くて殺風景な通路みたいな場所がどうしても多くなり、スケール感が削がれる上、ノーラン本来の良さを出し切れる題材ではなかったように思う。

時間というテーマは、ノーランにとって自家薬籠中の物だろうが、逆に言うと自己模倣に陥っていて、このまま行けば今後ノーランはどんどん胡散臭くなっていくのではないか。これまではプラシーボでなんとか誤魔化せてたかもしれないが、早急に何か新薬を用意しないと、薬の効果が切れて全部ハッタリだと気づく観客が多く出てくると思う。

ただただ「007が撮りたい」というノーランの心の叫びだけが聞こえてきて、何だか無性に虚しくなってしまった…。

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――以上が初見時の感想です。

このように当初は色々と文句を垂れようかと考えていましたが……どうにも腑に落ちず、モヤモヤが治まらないのでもう一度観に行ってしまいました。

要するに完全にノーランの術中にはまってしまったわけですが、ニ度観て、自分なりの解釈に到達した途端、今まで感じていた「虚しさ」が一瞬にして「愛おしさ」に変わり、評価も一変しました。

SF映画で「考えるな、感じろ」なんて無責任極まりないと、当初は考えていましたが、何もこれは「考えることを止めよ」と言っているわけではなく、「自分なりの解釈に辿り着くこと」を望んだ言葉なのだと今では思います。

――以下、ニ度観た結果の個人的な、というより、ほとんど妄想じみた見解となります。

(観客が「逆行」できるのは結末を知った上で観る二度目以降なので、やはりこの映画は二回以上観ないと真価がわからない作品だと思います)

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何よりも一番腑に落ちなかったのは、ノーランは何故面白さを放棄したのかということ。
これだけ練りに練っているにもかかわらず(というかそうだからこそ)、出来上がった映画は、噛み過ぎて味のしなくなったガムのようになってしまっている。
単にノーランが裸の王様になっただけなのかもしれないし、煮詰まってにっちもさっちも行かなくなった状態のまま納期を迎えてしまったのかもしれない。

そう。この映画、脚本を執筆していて煮詰まった時の頭の中の状態に異常に似ているのだ。

初見時の感想でもちらっと触れたが、脚本を考える行為は常に逆行(逆算)だ。結果があって原因がある。それを嫌って結末を決めずに頭から書いてしまう場合もあるが、セオリーとしては結末から遡って創っていく。そしてファーストシーンまで組み上げたらようやく折り返して順行で頭から書いていく。

脚本開発は、名も無き男の辿るルートとはちょうど真逆、つまりは、未来人の来たルートそのものなのだ。

そう考えると、作者=未来人であり、未来人の手先であるセイターは作者(つまりノーラン)の分身と見做すことができる。

名も無き男が「主役」だの「黒幕」だのといった自らの役回りを異常に気にするのもこれで合点がいく。

この映画は、神たる作者と、未だ何者でもない作中人物たちとの闘争の物語なのだ。

明らかに主役のニールを脇に置いたり、逆に主人公から名前を取り上げ、葛藤を持たせず、辻褄合わせの道具にするような不可解さもこれで説明がつく。

横暴な作者(=神)の姿が、セイターに重ね合わされた結果(現に劇中でセイターは自らを神と呼んでいる)、皮肉にもセイターが最も感情的で人間らしい存在として描かれているのも偶然ではない。

やはりノーラン=セイターなのだ。

しかしながら脚本というものは、作者の自己表現であると同時に、「他者」表現でもある。

ここで言う「他者」とは作中の登場人物を指すのだが、彼らは架空の存在なので当然作者は彼らの自己実現をも担わねばならない。
作者の意思を貫くのか、それとも作中人物に寄り添うのか、両者にどう折り合いをつけるかが脚本を創る上で最も重要かつ困難な課題になるのだが、どんなに練りに練っていても大抵途中で何度か頓挫しかける。

未来を知る作者は、逆行(逆算)しながら、作中人物達をこれから起こる出来事に従わせようとする。一方、作中人物と共に順行しながらその運命に抗おうともする。

作者はこの相反する作業を同時に頭の中で行っていて、大抵はどちらかが折れて済むが、時に両者が正面衝突してどちらも引かないことがある。そんな時は本作で描かれたような順行逆行入り乱れたカオス状態となり、それが一般に言う「煮詰まった」というわけである。

こうした現象は作中人物の造形を緻密にすればするほど起こりやすくなる。
作中人物が自らの意思で勝手に動き出すからだ。
イキイキとした人間を描く普通の映画ならばこれはむしろ歓迎すべきことで、作中人物をある程度自由に泳がせながらあとは上手いこと結末まで誘導しさえすれば良いのだが、今作では、逆行という設定上、あまり自由に動かれて辻褄が合わなくなると映画そのものが破綻するリスクがあまりにも高いため、意図的に作中人物の造形を省略している。

作者は時として自己表現のために、作中人物の意思を無理矢理曲げなければならない時がある。あるいはその存在自体を消してしまわねばならないこともある。

ノーランくらいになるとそうした「蹂躙」や「殺害」の例はもはや膨大な数に上るのだろう。

今作には不思議と死のイメージが付き纏うが、それはこの映画がそうした「犠牲者」に向けてのノーランなりの鎮魂歌だからなのでないだろうか。

今作における死のイメージとしては、冒頭オペラハウスの眠る観客、名も無き男の偽薬による擬似的な死、そしてラストのニールの運命などがすぐに思いつくはずだ。
あるいは下敷きにしている007の影響も当然あると思う。

そもそもスパイという存在は殺しのライセンスをもつ故、自らも存在しない者=「死者」として振る舞わねばならない宿命にある。
しかしジェームズ・ボンドが特異的なのは、(現ボンドで言えば)トムフォードのスーツに身を包み、オメガの時計を付け、アストンマーチンで敵陣を正面突破するという「あり得なさ」によって、そうしたスパイ本来の在り方を全否定しているからで、そこに007というシリーズのヒロイズムがある。

しかし一方、007の批評でもある今作においては、ニールの運命を表立って描かずに伏線で匂わせる程度に収めることで、そういった007的ヒロイズムを実に周到に回避している。

それによって物語は自然と相棒である名も無き男へと焦点化され、名前も役柄さえも与えられず、007的名乗りを封じることで、スパイ本来の「死者」的な意味合いが強なっている。

但し本作の主人公たちは、より正確に言えば「死者」ではなく「未だ生まれてすらいない者」ということになるのだが、「生者」でないことに変わりはない。
一方、逆行世界を望む未来人も完全な「生者」かと言えばそうでもなく、ニールの例でも明らかなように、むしろ自ら死期を悟り、運命を決定づけられた者とであり、自由意志のもとに生きる完全なる「生者」とは本質的に異なる。

この映画が纏うそこはかとない虚しさは、そこに完全なる「生者」が誰一人存在していないことに由来している。

ノーランは、そうした創作における「犠牲者」を弔うための供養塔として、この映画を創ったのではないか。
この映画について考えるとついそう妄想してしまう。

さらにノーランは、ジェームズ・ボンドに成れない名も無き男の暗躍に、007を撮れない自身の姿を重ねているとすら思えてくる。

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本作が今後、自分の中で大切な作品になっていくのはもはや間違いないですし、ノーランのフィルモグラフィーの中でも重要な作品に位置づけられる日が来るかもしれませんが、単に面白さだけで言えば当然ノーランの他の作品の方に軍配が挙がると思います。

ただどうしても「つまらない」だけで終わらせたくなかったので今回は二度の鑑賞となりました。

初見時は通常の面白さの尺度で観たため星1。
しかし、二度目の、自分なりの解釈(妄想)を経た上で考えると星5。
両者の板挟み状態(まさに挟撃)に陥り、レビューは非常に困難を極め、まるで脚本が煮詰まった時のように苦しみ悶た結果、間を取ってお茶を濁すという、自分の信条に反する評価となってしまいました。

世の中には、面白い映画が沢山ありますし、心に残る映画も沢山あります。
しかしながらこれを両立することは非常に困難を極めます。
でもノーランにはそれができると思うので、次回はうんと面白いやつをお願いします。


長文、失礼しました。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
かるまるこ

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