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ペトラは静かに対峙するの3110133のレビュー・感想・評価

ペトラは静かに対峙する(2018年製作の映画)
2.5
 アーティな彼(女)は制作することをやめるだろう。もしくは商業主義にはしる。

いまハヤリの諸要素をいい感じで取り込んでみた、アーティ映画。雰囲気はあるし、スペインの田舎の風景は美しい。
この映画って何か感じいいよね!的な印象があるにしろ、観ていて結構苛立ってしまった。
なぜか。大きな要素として二点挙げたい。

一点目。真実と芸術の関係。
劇中、芸術の最も重要なものは真実だという。ペトラはそれを追い求め、一方レジデンス先のジャウメは商業主義に走り、彼の制作は真実の追求には向かっていないという対比。
まあ真理なり真実なりと芸術との関係は深いにしろ、実際ペトラが追っている真実とやらは、自身の出生にまつわる事実に過ぎない。描いているのが明らかに「父」の顔なのは失笑。ジャウメが彼女の作品を自己セラピーと指摘するが、まさにそれ。
途中、彼女の制作する動機がレジデンスに滞在するためにすり替わっているようにも思え、それは一貫して不純で俗物のようにカリカチュアされたジャウメより、一層に不純で気持ちがわるい。ポーズした自分をモデルに描いてるって、勉強してない美大生か!(せめて、彼をモデルに描いてみたらどうなのだろう。DNA検査を要求することなく、言葉に翻弄されるからには、科学的事実ではなく、精神的な交流が彼女にとっては優位なのだろうし。彼女が本当に画家なのだとしたら、描くことで思考し、世界と対峙するはずだろう。現場まで赴いてなにしてんの?)
そもそも彼女にとって芸術において追うべき真実が「私のお父さんは誰?」なんだとしたら、絵なんて描いてないて、探偵でも雇えばいい。そんなものと芸術の真理なり、アーティストが追い求める真実なりを同一視するのだったら、絵をやめて正解。
(スペインの現代美術がぱっとしないのを、この映画から感じてみてしまうのは間違ってるのかもしれないけれど。劇中でドイツに憧れて、2か月も滞在したって台詞があったが、それだったらもう少しそこで芸術哲学を学べばよかったのに。)絵を辞めて保育士になったり、普通の仕事につくといったステレオタイプの描写も、この国も例外ではないのだけれど、そのメンタリティ自体が、商業主義の権化たるジャウメと同じ。(商業的な)成功と失敗という二項対立。現実のアーティストたちは、資本主義の中で強かに、しなやかに生きている。

二点目。フェミニズム的演出。
フェミニズムは現代社会、現代思想において重要なトピックだし、近年の映画、芸術作品においても無視できず、全面から取り組む作品、アーティストも多い。フェミニズムへの迎合はもはやブームのよう。この映画も明らかにその風潮にのって、重要だよね!流行ってるよね!感があるのと、それへの過剰適応というか、女尊男卑が過ぎて、結局は性差別的。女と男の二項対立の中で、差別主義者であることからは脱せず、グルグルと回っている。劇中のアーティで雰囲気いい感じの音楽もそういった使われ方がしていて、不愉快だった。(フェミニズムの思想は重要だし、性差別は(性に限らず)根絶しようと努めなければならないが、こうゆう浅はかな扱われ方ばかりになると、逆に危険だなーと感じてしまう。)

監督は基本二項対立で思考しているのだろうな。思考する上で二項対立を用いるとしても、そこに留まっていても仕方ないだろう。

上記二点をもって思うのは、作り手がどうしても取り扱わなくてはならないものが見えないということ。なんだか所謂、広告代理店っぽいニオイがする。デリダの『歓待について』の序論でアンヌ・デュフールマンテルが指摘する「強迫観念=取り憑き」が感じられない。「偽作家は画家の筆致や作家のスタイルを模倣し、違いをわからなくしてしまうことはできるが、画家や作家の強迫観念を自分のものにすることはできない」。自らの存在にしろ、それの根拠として立ちはだかる親の存在にしろ、フェミニズムにしろ、芸術にしろ、監督はどこまで自らの強迫観念としてあるのだろうか。

章立ての構成の工夫や、意図的なカメラワークの演出を、先行例を挙げてみても、それを無視して逆に本作のオリジナリティとして持ち上げてみても仕方なく、表面的な装飾に見えてしまった。強迫観念のないところで取り憑きは果たされないのだろう。稠密さによる強度がない作品は、諸要素がそれぞれによかったとしても、バラバラに見える良い例。監督がどう言おうが、天使の視点(それはベンヤミンがクレーの絵に見た「歴史の天使」だろうが)はこんなふうに意図的にパンしたりしない(〈ROMA〉は、主題も含め歴史の天使の視点だった)。

残酷で不条理で、善意を基礎に据えることができない世界に、投げ出されるようにして生まれた、その存在の(現実によって覆い隠されてしまっている)尊さ(の真実)に、ペトラは対峙すべきではなかったか(「静かに対峙する」って邦題だけで、原題にはないけれど)。誰か特定の人が知っているものなんて、(恣意的に隠した)事実であって、芸術と関わる真理、真実ではない。
自らの出生の問題から開かれたのは、「出生の秘密」の事実ではなく、人間の誕生(存在)の根拠の希薄さと、そこには歓待が不在であるかもしれないという足下から崩れ落ちるような残酷さだろう。もしそのことをこの物語が正面から、強迫観念として立ち向かうのだとしたら、ペトラやルカスにもその悪が内在することを描くべきだった。もしくは子供への歓待を描くべきだった。ペトラが子供と夫を残し、独り下山することは、出生に関する悪でもなく、子供の歓待でもない。内向的な弱さでしかない。なぜその弱さを描く必要があるのか。
(子供が両親が愛し合っていて欲しいと望むのは、家庭の保全というだけでなく、自らの存在がこの世界に歓待されているという根拠をえたいからだろう。)

それにしても、最後のシーンはちょっといいなと思ったりもする。世代間の葛藤を抱えながらも、存在の尊さを前にした許しとして。

いやだけど、ジャウメという悪い奴を中心としたサスペンスドラマのように思えてならない。分かりやすいキャラたちが織りなす昼ドラ!不倫と不道徳の胸糞悪い話と、物語を進めるために簡単に人が死にすぎ。それを神話的と形容してみたり、イマっぽい演出で装飾したところで!
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