YasujiOshiba

わたしは光をにぎっているのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
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アマプラ。23-7。身近な風景が見たかった。タイトルも気になった。松本穂香は見たかった。プレビューで光石研とからんでいた。クリック。

野尻湖が透き通っている。そこは船着場。あちら側への渡しがつくところ。祖母は縁に立ち、澪(松本穂花)は一歩引く。こちらへおいでと祖母。おそるおそる傍に立つふたり。覗き込む水面はどこまでも広がってゆく。祖母は此岸へ、澪は東京へ。ぼくらはみんな、そうやって渡ってきたんだろうし、またいつか、あちらへ渡ってゆく。そのときぼくらが握るのは「光」なのだ。

野尻湖の「光」は銭湯の「伸光湯」につながってゆく。「光」つながりなのだけど、つかめない光をつかもうとする詩人:山村暮鳥〔やまむらぼちょう〕(1884 -1924)による、絵にすることができないコトバを絵にすることはできるのだろうか。それはまるで、歩けない水の上を歩くようなもの。それでも、「目が見えているかぎり、耳が聞こえているかぎり、大丈夫」。なんとかなる。

なるほど、だから銭湯なんだ。だから映画館であり、消えゆく商店街であり、続かなくなった民宿なんだ。そこはまだ目が見えて、耳が聞こえている人々が集う場所。集いに形はない。集まっては去ってゆく。現れては消えてゆく。まるで光ではないか。

その光を握ることを映画にするのは、うん、悪くない。

『あまちゃん』を見て女優になろうと思ったという能年玲奈にそっくりな松本穂香も、その微かなたたずまいが、うん、悪くない。

そしてこの映画、詩人の言葉に光をつかませようとして、ひっそりとした「あわい」を映し出しているのも、たしかに、悪くない。

悪くないと言える映画は、どこかに心地さがあり、発見があり、広がりがある。そうか映画って光の芸術なんだよな。最後に流れたカネコアヤノとあわせても、目が見えて、耳が聞こえることを実感させるのだから、うん、これはぜったい悪くない。
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