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わたしは光をにぎっているのQTakaのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
3.8
失われつつある私達の居場所と、そこに集う人々。
そんな、日常を見つめた一本。
逃げていくように、こぼれていくように、掌からその感触が失われていくように。
当たり前の風景が、存在が、今、なくなっていく。
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おそらく、首都圏の再開発をイメージした舞台設定なのだろう。
そこには、かつて賑わったアーケード街があり。
今も、細々と続く飲み屋街があり。
そして、銭湯がある。
三点セットで、その街は成り立っている。
そこに、みんなが揃っている。
生活の舞台は、全部、この映画の中に揃っていた。
そして、その片隅で、物語が始まった。
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下町の銭湯。
だれもが、人生に一度くらいは通ったであろう「銭湯」。
そこには、馴染みの顔が有って。
もしかすると、名前も知らない、世代も違う誰かだったかもしれないし。
あるいは、日常を共にする仲間や同僚だったかもしれない。
いずれにしても、そこは、裸の付き合いってやつで。
非日常の特別な場所。
そして、欠かせない場所。
そこがこの映画の舞台。
誰かにとって、あるいは私にとって、欠かせない場所とその人々の物語り。
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魅力的な登場人物
○亡くなった父親の友人で銭湯の主。
なんとも冴えないおっさんで、頼りにも何にもならない。
辺り一帯の再開発で、すでに取り壊されることが決まった銭湯。
その銭湯と、人生を共にするかのような、無気力な毎日。
○田舎から父の知人を頼に東京へ出て来た田舎娘。
しゃべることもままらない不器用な女子。
転がり込んだのが、取り壊しの決まった銭湯。
その知人の銭湯主は、飲んだくれで頼りにならない。
果たして、東京暮らしは如何に…
○先頭の常連達。
やさぐれOLと映画館に住み込みの映像作家。
飲んでいる場面が多めの彼らとの絡み。
舞台となる街には、シャッター街のアーケードと、飲み屋しかない。
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キャストも多くなく。
場面も色々ではなく。
それでも、魅力的なカットはいくつかあって。
田舎の湖を前にした旅館のカットは、時が止まったような魅力があった。
一方の東京のカットは、やはり銭湯のシーンだろう。
営業後の湯船に一人浸かっている場面。
そこから天井へパンすると、光が差し込んでくいる。
営業前の湯船に、沸き立てのお湯に陽の光が差し込んでキラキラ光る。
先頭の場面には、薪を焼べて湯を沸かすシーンもある。
常連達との酒の席は、落ち着いた感じで、会話に集中できてイイ画だった。
それは、この下町の日常そのもののように見えた。
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キャストに注目すると
渡辺大知と徳永えりだろう。
頼りにならないけど、精一杯頑張っている映像作家役の渡辺大知。
映画館に住み込みって❤️。
映写室が住まいって❤️。
やさぐれOLの德永えり。
なんだか、このキャラクターが見たくて、この映画を見た気がする。
とてもイイ感じにやさぐれていた❤️。
だから、この映画は、それで満足。
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田舎の旅館と下町の銭湯。???
どうもこの繋がりがイマイチピンとこなかった。
知人どうしの繋がりだったということなのだけど。
もうチョットうまくできんかったかな〜。
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ラストシーン
ちょっと唐突な展開?
つまり、「銭湯ランナー」ってことでしたね。
そこ、もう少しドラマチックに繋いでくれても良かった気がしますが。
あのノボリに気付かなければ、なんだかわからないかもしれませんね。
全体に言えることですが、どうも状況の説明とか繋ぎが無さすぎで、状況が展開してから後追いで理解していく感じがありました。
イイお話なので、ちょっと残念。
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『銭湯』映画と言えば、「湯を沸かすほどの熱い愛」。
たまたま、今年の初夏に映画館で見て、しこたま涙した一本。
銭湯は、舞台として魅力あるねぇ。
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記録映像としての映画
最近、いくつかの映画の制作過程から耳にする「記録としての映画」ということ。
映画を見る中で、時に、懐かしい風景に出会うことがある。
自分の生まれ育った土地の、古い映像。
その土地で撮影された古い映画の中に、懐かしい街並みや、人々の姿を見つける。
それは、今、私達が生きているこの時代についても言えることで。
変わりゆくこの風景、街並み、人々の姿を映像に残すことは、重要だ。
この映画でも、そういう側面を見ることができる。
そこには、確かに昭和・平成を生きてきた人々の姿と街並み、あるいは風景がまだ残っている。
その姿をしっかりとフィルム(じゃないと思うけど)に焼き付けておく。
それは、そのまま、いつか私達が振り返るためでもある。
そして、その風景が、この映画の中にある通り、目の前で壊され、なくなっていく。
それもまた、記憶され、記録されるべきことなのだろうと思う。
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