シネマスナイパーF

わたしは光をにぎっているのシネマスナイパーFのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
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ジェダイは「どうするか」ではなく「どう在るか」を極める…
まさにその道を行く物語であったと言えよう
中川龍太郎監督、さてはジェダイだな?


「しゃんと"する"」と言うが、これは行動を起こすということではない
変化していく世の中にただついていくだけでは、自分や社会の本質など大事な部分をいつか必ず見失うことになる
変化にそのまま乗ったり意地で抵抗するのではなく、その変化の流れから敢えて自ら抜け出すことで保たれる尊厳がある
「しゃんとする」というのはそういうことなのだと僕は思う

劇中、美琴さんの知り合いのクリスチャンの男が出てくる食事シーンがある
件のクリスチャンの男自体が超面白いキャラクターなので笑っちまうシーンではあるんだけど、そこで澪が明らかに浮いている
自主映画を撮っている銀次も思想自体は否定しつつ乗っかっているため完全に澪だけ独立している
まず飯を食わないって時点でそこにいる人間と本当には分かり合えないんだと訴えているし、彼女の表情も分かりやすい
その後気を落とした澪が公園ベンチで座っているところであるキャラクターが現れて澪を彼の世界に連れ込むんだけど、そこで見せられる幸せや無償の愛が本当に正しいものなのかはさておき、そこで体験したことが澪にとっての幸せであり愛だったのだろう
相手が遠くに行くから付き合いやめますだの都合が悪いから離れますだので変化させていく人間関係を一歩引いたところから見ることができるのは、彼女のような人間で在ればこそなのだから恥じることはない
もちろん美琴さんが悪モンだとかそういうことではなく、ラーメン屋での水のくだりなどの気遣いの届いた社会性は澪も見習うべきところではあるし、そのあたりの人物演出も上手い映画だった
喋れないのではなく喋らないことで自分を守っている、と澪に指摘したところなんかは先述したシーンの澪にめちゃくちゃ共感してた分僕にもグサッときた

どう終わるのかが大事、というのはどういうことなのか
終わるからこう「する」という変化にただ対応していくのではなく、終わりに際してこう「在る」という確固たる自分の懐に終わりを迎え入れることで終わりを迎えることが大事、ということかな
多くのものが時を経て無くなり過ぎ去っていく世界で、変わらないものとして尊厳を持った存在で「在れ」と


「人間を含む風景」そのものを撮ることに重きを置いたと監督は話していますが、その考え方が慧眼
人間もあくまでこの世界にこの姿で存在しているだけに過ぎず、一度外側から見てしまえば景色の一部であり、何かに影響を与え何かから影響を受けるひとつのオブジェクト
その中で尊厳を保てる人間で在れば、変化に対して流されるだけの存在ではなくなり、自分自身の現実を自分自身で作り出せる存在で在れる
引きで長めのワンショットを多くした撮影意図は100%大成功しているし、いずれ失われるものとしての下町をこれでもかと焼き付けることは単純に価値あることであり、現実の我々にも変わりゆく世界でしゃんとしろと語りかけるようでもある

そんな風景中心の作品ということで白羽の矢が立ったのが松本穂香さん
彼女が澪を演じるにあたり作り込んだりせず、澪に強く共感し松本穂香自身で在るというアプローチをとったのはこの作品的に大大大正解
何かを意図して「する」のではなく「彼女自身で在る」ことで澪を表現した
この映画を十割理解して主演を張っている素晴らしい澪っぷり
今年の主演女優賞
あと可愛い
可愛いだいすき


ある事情も含めて個人的に非常に非常に大事な一本です
今年の納めをこれにして正解でした