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パラサイト 半地下の家族の海のレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
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わたしはふと、伊藤計劃が「映画はテーマを観に行くものではない」と書いていたのを思い出す。映画とはそこにただある映像に過ぎず、そこから何を持って帰るかは我々に任されていると。本当にそのとおりだとこういう映画に出会うたび思う。わたしの母は、日中ガソリンスタンドに出て、夕方に帰宅し娘達にご飯を作り寝かし付け仮眠を取り、夜中になったらファミレスにバイトに行く、という生活をしていたことがあった。そこまでして、必死に生きていても、うちは当然のように貧乏だった。犬を飼いたくても飼えなかったから、妹と二人で、犬のぬいぐるみを公園に散歩に連れていったことがあった。誰かが通りかかったとき、わたしたちは、慌ててそのぬいぐるみを隠した。家計が苦しい、貧乏だというのが誰かにバレたくないというよりは、自分は自分に与えられたものだけで幸せなのに「かわいそうな子」だと他人に思われるのが嫌で(相手にそんな気がなくとも母への非難に繋がるとも考えていた)わたしはできるだけ自分に「ない」ものについて友人にも大人にも話さなかった。何かを語るときのこの癖は本当に今でも抜けてないし、見方によったら見栄っ張りとかプライドが高いとか高慢にさえ見えるだろう。これはわたしに染み付いた、においなんだと思う。「海はせっかく賢いのに大学に行かせてあげられなくてごめんね」と時々謝ってくる母に、「そんなことママに言わせるほうがつらいのわかってよ」「お金あっても大学には行かない、行きたかったら自分で稼ぐ」とわたしは言い、そうだねと抱き合うのに、母は誰かにどこかでその傷を開かれてはまたわたしに謝るんだ。こういう映画が単なるエンタメとして消費されるようになれば、もう終わりだと思う。何か感じてたとしても、自覚があっても、結局関係ないからって忘れたふりをして暮らす人が居れば、生きている人間の心や体が幽霊みたいに扱われることはなくならないのだと思う。見て見ぬ振りをすること自体を悪だと言い切れるわけじゃないし、本作のどちらかの立場に極端に肩入れする気もない。ただ、わたしは自分が数少ない特権で清く正しく生きてこられたということを誇ったとてそれを権力にしようとは思わない。自分がこの家族のようになってしまっていた可能性を、排除しようとは思わない。それが、人の上に立つ(立たなければならない、そういった特権を持つ)際の、最低限のルールではないかと思う。相手の人生が自分にとって驚くべきものかもしれないという、未知のものかもしれないという、受ける印象とは正反対のものかもしれないという、それくらいのことを、わたしたちは想像すべきだと思う。何も知らない人が投げかける優しさは、学ぶことを怠らない人が投げかける厳しさよりもずっと凶器になり得る。この物語に傷を入れたのが、不法行為でなく会話のたった一部分であったように、時により危険を孕むのは、知り尽くした悪意よりも詰めの甘い善意だ。
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