せいか

パブリック 図書館の奇跡のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

パブリック 図書館の奇跡(2018年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

12/24、GEOにてDVDレンタルして視聴。字幕版。
図書館に興味があるので放映当時から気になっていたが、やっと観たという次第。ちょっととっ散らかった話ではあったが、概ね面白かった。血まみれな悲劇的結末なんていうのはないけれど、社会の皮を引き剥がしつつ虚しく悲劇的結末を迎えてはいた作品だった。ふわふわしたところはあるけれど、余韻がつらい。もう少しコメディータッチに仕上げつつ、さりとてホームレスの問題をまともに取り上げるのかと思っていたが、シリアスとまでは言わないけれどずっと暗い目をしてもっと広く深いところまで拡大して描いてるところがあった。邦題だとサブタイに『図書館の奇跡』なんて前向きなものが入っているけれど、その奇跡は多分に気の所為なものである。
監督・脚本・主演エミリオ・エステヴェスという作品なので、多分に彼のやりたいこと、伝えたいことがとことん反映されてるのが本作なのだろう。

あと、図書館の中に立てこもる話なのだからそりゃそうなるが、棚をゴリゴリ動かしたり本を読み散らかしたり挙句の果ては机上に広げてる資料払い落としたり、閲覧室でピザも食べたり云々と、なかなかヒヤヒヤしてくるシーンも多かった。図書館は基本的に直接的な意味で人の食住に対応できる場所ではないんだよな……。

余談だが、京都でもホームレスの凍死者については記事で見かけることもあり、数年前には比較的人通りが多い地下鉄三条駅を上がった所の開けた所に座り込んだまま凍死していたホームレスのその死がそもそも気付かれるまでに時間が掛かっていたというニュースなんかも出ていたりして、街を行き交う人々の無関心さに今もひっそりショックを抱く気持ちを抱えていたので、その話だとか、これまでに見かけてきたホームレスたちを思い返す作品となっていた。京都市内の街中、一昔、二昔前までは割と居られたのがどんどん掃き清められていったのとかも思い出していた。数自体は減っているわけではないだろうに(近年などはコロナ禍直後に注目されたりもしていたが、それだってすぐに世間は無関心になっていって存在に蓋しているなあと思っている)。それを思うと本作は少なくともそこまでのそこに居ることすら許さないような排斥を強くはしていないので(とはいえ確実にそれはあるだろうが)、なんか、日本に住む身としてこの地に改めて思うところはあった。


あらすじ。
アメリカ、シンシナティにある大きな公共図書館。冬の寒さも厳しくなる中、そこは開館直後から閉館間際まで数多のホームレスが滞在している光景が状態化する中、市民たちも数多訪れる場所だった。3階フロアを担当する図書館司書のスチュワートは館内で顔見知りとなったホームレスたちとも交流をして過ごしていたものの、数週間前に体臭がひどかった人物を周囲からの訴えもあって追い出した咎で図書館が訴えられたことがきっかけで職が解雇を言い渡される。
そしてちょうどその日、ホームレスたちは、シェルター不足と凍死者の増加のために図書館の3階フロアに閉館後も留まり続け、これが次第に情報の錯綜とともに話の規模が大きくなっていく。当初はただ人命を優先して規約違反してそれを許したスチュワートだったが、あれよあれよと立て籠もり犯やなんやの中心人物にされたり、このことが最終的にデモ運動になってしまったりするのだった。

最終的に、冒頭、日常の図書館の中で出てきた全裸でいかれてしまっている男を踏襲したようにみんなで全裸になって歌を歌いながらお縄につくという、人騒がせな一幕として事件は幕を閉じる。
そもそもホームレスたちからして、自分たちが寒さから逃れるための屋根がほしいのと、行政の対応が足りてないからというので図書館に居座ることに決めたというだけで計画性も何もなく、役割を押し付けられるスチュワートがなかなか可哀想だった。最初は同じフロア担当の女性も付き添っていたけれど、事が大きくなると保身のためにこの場を脱出する仕方がない無責任さがあったり、事件に対応する人々もメディアもそれぞれに自分勝手にただこの場を過剰に荒らすような方向に意図的に動いていたり、誰も彼もがそもそもここにある問題をありのままに捉えていない残酷さがある。そしてありのままだと世間は見向きもしないという現実もあるのだ。
本作は並行して市長選争いというものがあって、それのニ大立候補のうちの一人が検事として主人公たちと関わり、始終(そのものずばりな)悪役を演じるのだけれど、そのもう一人のほうもこの事件がメディアで注目されたことでいかにも慈善的に振る舞って事を利用していたりと、とにかく描かれる世界の汚いこと汚いこと。
そしてこの事件に関してきっと世界はまた消費して吐き捨てすぐに忘れてしまうものにしかなっていないだろうことも十分に想像できるのに、(みんなで全裸になって捕まったから多少は面白がられる延命措置ができたくらいだろう)、途中では、あるホームレスは、人々に自分たちの存在を知らしめるのだと語り、ラストでは、一生忘れられない思い出になったと満足げにしている目の当てられなさ。
余談だけども、ラストでホームレスたちは自分たちの全財産となるだろう荷物を服とともに図書館に置いて行くのだけれど、物語後の彼らのことが気になるばかりである。

作中、図書館に留まりはじめた頃、ホームレスは、ウォール街でも同じことをやったんだ云々と言うくだりがあるが、たぶんこれは2011年の「ウォール街を占拠せよ」で知られる運動で、08年のリーマン・ショック以来の不景気を原因とした雇用不安から(当初は)若者を中心に行われたもののことを言っているのかと思われる。だから直接的にホームレスがウォール街に立て籠もったことがあるとかいう話ではない(はずである)。ただ、一連の不景気によって多くのホームレスが生まれたのだから完全に無視できるものでもない。登場するホームレスの中にはそれに関連するのだろう語りをする人もいるし、直接の経緯は不明だが、一時期はホームレスだったというスチュワートもその景気の波の犠牲者だったのではないかと思う。
他にも、ホームレスたちの少なからずがかつて兵として国に貢献してきた過去があるのに、今はこの扱いだというくだりもあったり、作品の通奏低音にはこの国の社会が無視してきたものというものが存在している。

本作は図書館という場所こそ舞台にしてはいるけれど、描いているのはもつれ合うように築き上げられていく世の中の残酷さである。人々は他人に対して故意にしろ無邪気なものにしろ嫌嫌やるのにしろ、悪意を表出し、それがみるみるうちにまた別のそれも加えながら膨らんでいく。
図書館という狭い世界でも、自由に門戸は開いていてもそこには人間がいるのだから、不愉快な人は排除される。臭いというだけでも。そして臭いという不快を公共の場で発していることも確かにそれ自体に問題があることだが、訴えれば窮地に立たされるのは、板挟みの中で対応しなければならない人間なのだ。図書館側はその司書個人の苦悩は理解しつつも、運営資金に事件が影響を与える可能性を考慮すれば、そのクビを切る方を選びもする。異常なものは寒い外に追い出してしまえばいいというわけである。そしてそのからくりにほとんど思いつきで抗っても世界は利己的に膨らみ続けることは止めないのだろう。本作では個人レベルで見れば多少の改善の兆しは見えるけれど、それもすぐに消えてしまいそうなものとしてしか描かないシビアさを貫いている。きっと主人公もまたホームレスになるのかもしれない。社会一般が言うようなまともな生活をすること、そこに立ち直ることに本作は光を投げかけることはないのだ。薬中で家を飛び出しホームレスの中に混じっていた青年が、スチュワートに諭されてもただ怒りと暴力で応えたように。
ここに救いはなく、あるのはあくまでぼんやりとした、取り留めのない怒りばかり。デモ中に主人公がまともに取り合うつもりがないらしいインタビュアーを前に、自分の言葉でこの事態を語ることを止めてただスタインベックの『怒りの葡萄』の引用を淡々と言うシーンがあるように(and in the eyes of the hungry there is a growing wrath. In the souls of the people the grapes of wrath are filling and growing heavy, growing heavy for the vintage.)、人々がお互いに歩み寄るということもほとんどない。美しい世界は現状のようなものではあり得ず、または至極狭い範囲の慰みにしか機能せず、ゆえにそれを全力で否定しつつ、でもそこに掃き捨てられている人間が立っているみたいな、そんな印象を受けた。
スチュワートに対して刑事が、インテリぶった言い回しが鼻につくみたいなことを正直に言うシーンがあるけれど、このへんでやんわりと連想される、本というものを嫌悪する人たちというのもこの断絶感を煽っているというか。ここではそこまで露骨にそういうヘイトを向けるタイプの描写ではないし、まともにこの社会問題と向き合うことをやめて引用に走ったりしているスチュワートやホームレスたちというのがあるのでそれを端的に示唆する指摘ともなっていたのだけれども。
ラストに全裸になることって、自分の外面的特徴を剥ぐことでもあるんだろうけれど、本作ではあくまで冒頭に登場した迷惑な利用客の反復になっていたり、問題としてある窮状を誤魔化して何らかの意志やメッセージ性も剥ぎ取り、あれよあれよのうちに数多の考えなしの結果として膨らみ過ぎた事態をある意味丸く収めるための行動にしてしまうものでもあり、つまりはやっぱり社会に消費されることを諦めと共に受け入れるような結末になっていたと思う。そしてこの行動の結果にもたらされるのは関わったほとんどの人たちの後退であり、でなければこれを利用した市長選立候補者がいくらか市民たちにアピールできたというものばかりなのである。クソな醜態ばかり曝していたメディアがホームレスにインタビューを申し込むくだりもラストにはあったけれど、そこで何か問題意識に対して前進するものがあれば幸いであるという、あるかないかも分からない希望が示されるだけなのだ。
本作のタイトルは厳密には「The Public」のみであり、図書館ということを強調しているわけではない。これはあくまで公共というもの、そしてそれが存在する社会に対する作品であり、それをあんまり好意的に見つめてはいない、皮肉を傾けた作品なのだろう。


立て籠もりシーンになるまでは日常の業務の表現としてレファレンスシーンというか、とにかく人々が投げかけてくる多岐にわたる質問内容が怒涛のごとく間として投げかけられていたりするのも図書館という公共的な、人間に対する受け皿の実態を描いているのだろうし、図書館とは縁遠いらしい女性が、司書の仕事をただ座って本読んでたらいい楽な仕事、分類に精を出しているだけの仕事として無邪気に言っていたりするのもまた社会の対象への無理解を描いているのだろうし(ホームレスに対する福祉対応にしたってそうだが)、社会の軋轢を狭い世界で描くのに(アメリカの)図書館という舞台はすごくぴったりだったんだろうなあ。

あと、図書館の描写のいくつかにしろ、外の社会のもろもろの態度にしろ、だいぶ日本国内で感じるものと重複してくるものがあって、物語化されているのだからあんまり判断材料にするものじゃないが、私の周囲と変わらないんだなあというのでも気分がしょもしょもしていた。この世は暗い。
冒頭、本が好きで人が好きなら司書に向いてるかもっていう宣伝ムービーを流して、本に人生が救われた身で、なおかつホームレスだったところを司書として拾われたという救いも得ていたスチュワートが結局その図書館に捨てられ、社会のからくりによって再びそこからも捨てられとするのが、本当、繰り返しになるけれど、とことん暗いものを捉えていた。

ラストで行方不明になっていて、きっと死んだものと思われていたホームレスがひょっこり陽気に現れるのは明るいシーンでもあるのだけれど、さりとて明日はどうなるやらということは変わらないのだよなあ。
日本でもあることだけれど、作中、寒さから逃れるためにホームレスなどが軽微な犯罪を行って刑務所に行くことを選ぶというくだりがあるけれど(スチュワートもかつてはそれで逮捕歴を何個も作っていた)、最後に結局、「公共の場所」を不法に占拠したとして警察に捕まって運ばれて行くエンディングっていうのがまた皮肉だなあと思うのだった。
せいか

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