Ricola

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊のRicolaのレビュー・感想・評価

3.6
静の中にたまに垣間見える動的なショットこそ、ウェス・アンダーソンらしさであるとわたしは思っている。
しかし、この作品では彼の新たな境地をその点に見出されたのではないか。
とはいえ、彼の作家性は十分保たれたまま、さらに進化した遊び心で埋め尽くされた作品であることはたしかだろう。
いくつかの特集記事の製作過程を描くスタイルが、オムニバス作品のようにも捉えられるのも新しい試みのようだ。


まず作品の序章では、ジャック・タチらしさ全開である。
タチの作品で貫かれている、画面全体を動く絵画のように見立てる構造的ショットが続く。
一つの建物や街の一角を捉えても、画面の中で人々はそれぞれのことをしていることがわかる。まるで蟻の巣の断面図を見ているかのよう。
人物の存在と動きはもはや小道具やセットと化しているのだ。

オーウェン・ウィルソンがマヌケなタチへのオマージュ的なノリを少し見せてくれる。例えば、自転車に乗る彼が子供たちに追いかけられて襲われてカメラが横へと移動すると、自転車だけが残されたショットになる。

こののんびりとしたチャプターから一転、例えばアートの特集ページでは、素早い動きでカメラが人物を追いかけていく。この素早さとお茶目な演出は、いわゆるドタバタコメディのようなダイナミックな動きである。

とはいえカメラが最低限の動きをする部分もちゃんとある。
例えばカフェの入口を映したらすぐに中を映すが、その際にカメラが中へ入っていくのではなく、人が入口部分の壁を押していって排除する。それによって室内が露わになる。
つまり、カメラの動きが状況説明の役割を担っているわけではないのだ
またさらにカフェのなかでジュークボックスの両脇に佇む若者二人を置いて、その後ろの壁が取り外される。その動きも、やはり人力であることが強調されている。

人物をオブジェクト化する演出は、ウェス・アンダーソンの作品ではよく見られるが、この作品ではその傾向が顕著であるようだ。
例えば、編集長室で座っている若い女性が足をぷらぷらさせている様子さえも、ショットによってはオブジェクトとして画面を彩る。
他にも、アートが世界中に渡り多くの人から高い評価を受けることを示すシーンや暴動のシーンにおいては、人物を含めたその場の動きが一時停止したように一瞬が切り取られる。
このように、人物の動きが活発になりうる状況であえて動きを奪う演出は興味深い。しかし、暴動や銃撃などのシーンでも動いた状態のまま見せる場合もある。
停止させる演出では人物の表情に焦点が当たる場合が多く、彼らの「大げさな」表情を中心に置くことで面白おかしさが強調されているように感じる。

分割画面の多用やナレーションや人物の早口ぶりなどが情報過多を押し進め、なかなかついていくのが大変でもあった。
それに加えて、従来のウェス・アンダーソンの作品に見られた、人物も台詞もカメラの動きも場面を構成する全てのものがほとんど「動かない」ショットがこの作品には見られなかった。
人物の大きな表情に語らせてしまうことで、シュールさは薄まり単純明快になっているようだ。これは果たしてウェス・アンダーソンの目指す方向性なのか、それともこの作品で試したかっただけなのか、それはわからない。
ただ、緩やかで語りすぎずに展開されるヘンテコな世界をまだまだ観ていたいという思いが強まるばかりである。
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