ーcoyolyー

はちどりのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

はちどり(2018年製作の映画)
4.6
最初の方でアメリカW杯開幕まで6時間とかいう特番やってたからこれ1994年6月17日辺りから始まった。そして7月8日の金日成死去、10月21日の聖水大橋崩落から数日の4ヶ月余りの物語。金日成死去からすぐ10月までワープするから実際に物語として描かれているのは1ヶ月くらい。よく映画で夏休みに起こりがちな話が現実のイベントとの絡みで夏休み前に起こっていたので夏休み飛ばされちゃった感はある。

この映画静謐な韓国映画で、暴力描写さえも極力静かに描いていてどうしてもはっきりその行為を見せなければならないところでは殴られた人間の鼓膜が破れるという物理で強制的に静かにさせてしまうくらいに拘っていて、完全に小津安二郎meets韓国映画でああチャンシルさん好きそうだな、なんなら裏でPDとして駆けずり回っていそう、と思わずエンドロールでチャンシルさんの名前探してしまった(いなかった、というかまだ私はこのスピードでハングルを読めなかった)。

日本における1995年のような位置付けの年が韓国では1994年だった。そこなんですよね。これ1994年の空気がしっかりと流れていた。意外にも『ジオラマボーイ・パノラマガール』と共通点多くてびっくりした。『ジオラマボーイ・パノラマガール』設定としては2019年の日付出てくるけどあれ実質的には1994年だからね。小沢健二の『LIFE』発売されたの1994年だからね、学校でああやって私が他のクラスの部活の同期に貸したの1994年の話だからね、あれは結構確信犯的に1994年の空気作ってた(日本における1994年とはすなわち「1995年以前」ということなので何かは終わってしまったけど明確に何かが変わる前のあわいのフワフワしている空気感というのがあります)(日本では年明け早々に震災があったので1994年と1995年の間に線を引けるけど韓国においては1994年の6月から10月までの間グラデーションのように変わっていって10月21日以降が日本における1995年以降のようなものなのだろう。この映画はグラデーションの色合いの変化を描くために作られた映画なので空気がガラッと変わった後は描かない)。そしてリアルに1994年の夏に撮影された『渚のシンドバッド』があって、この映画ちゃんとあの地平とも通じていたから作り込みの迫力に地味に圧倒されました。実際に1994年に作られた映画と、日韓共通のこの時代の空気感の作り込みがあった映画と、そして太平洋を超えた『mid90s』までもこの映画は通じている。『mid90s』には乗れなかった私でも『はちどり』は乗れて、その『はちどり』の延長線上と捉えると『mid90s』にも少し関わることができて架け橋としてありがたい映画ですね、映画内では架け橋崩落してるのに。その崩落により繋がるものができてきて中々シンボリックな事象ではあります。

これはもう韓国版『青い車』です。1995年1月17日に起きたこと、大文字の歴史と小文字の歴史、そして小沢健二『LIFE』を描いたよしもとよしともの短編傑作漫画(映画の方は未見)。あの水平線と同じものが見える映画です。発表当時の90年代の空気を吸ってあれを読んでいた私たちなら、ああ、の一言で理解し合えるアレです。あの90年代の乾き方があります、閉塞感と焼け野原でヤケクソで遊んでいた子供たちのバランス感がしっかりと90年代。家父長制と儒教文化、その抑圧への反動の表出の仕方。その手触りの懐かしさよ。まだ今より擦り切れていなかった私たちの反動。焼け野原でバブルの残滓を拾い集め寄せ集めかき集めて笑っていたあの頃の。バブル崩壊してどうしようねー、とまだ少し呑気に構えられていた頃の。後に氷河期と呼ばれるものの始まりを感じつつもまだ余熱があったあの頃の。

韓国の女子中学生、本当に漢字が自分の名前+αくらいしか読めないんだということにちょっと衝撃受けたし漢字を読めるようになるための塾があるという文化が新鮮だったんですけど、そこにいた講師のソウル大学長年休学中の先生って学生運動の闘士なんだよねきっと。これはさ、『1987』で予習したやつだよ、あそこで立ち上がって戦った学生たちがその後どうなったか、という描写なんだよね。途中で歌ってるシーンでそのことに気付いた。日本だと1970年代の、私の知らない歴史上の人物が韓国には1990年代に存在していたんですよ。1990年代の私の青春の風景の中に突如1970年代の亡霊のような存在が立ち入ってきてちょっと上手く咀嚼できない時間が長かった。日本で学生運動の闘士が予備校教師に大量な流れ込んだという話は歴史として伺ってましたけども、そういう人がちょっと憧れのお姉さんくらいの身近な年齢差で接してくるの理解の範疇超えてしまっていて。でもきっとこの女性も日本の学生運動の旧体制そのまま引きずっている男性中心の枠組みで傷付いて学生運動から離れフェミニズムに傾倒した諸先輩方と似たような身の上なんだろうなって儒教fuck!家父長制fuck!という怒りと哀しみの共有はほんの少しくらいはできます。樺美智子の変奏でもある彼女、ひっそりと散った。主人公に種子を託して。その種子はどこか他のルートから私にも託されていたもので。

この映画、百合だのシスターフッドだのではしゃぐ人たちがとってもイージーに飛びつく姿というのは想像したくなくても容易に想像できてしまうんですが、私は本当にそういうことをする人が大嫌いだ。特にレズビアンでそういうはしゃぎ方をして自らのマイノリティ性の上に胡座をかいてマジョリティのシスヘテロ女性を消費したって構わないだろう、という甘えと傲慢さをゴリ押ししてくるような感性が大嫌いだ。そんなの属性関係ないから。レズビアンであろうとヘテロセクシュアルであろうとマイノリティであろうとマジョリティであろうと何人たりともそういう消費をしてはならないしされてもならないんです。それとこれとは話が別だ。甘えんなよ。私は私をそういう消費のされ方で傷つけられたくはないしあなたのことも傷つけたくはないです。百合という単語でもう私をこれ以上傷つけないでほしい。以上、白百合学園卒業生からの切なる願いでした。お前らさ、明らかに私の母校のイメージ引きずって「百合」という概念ではしゃいで消費してるだろう?私や私の同級生とのエピソードをそうやって意地汚く食い散らかされるのはもう本当にうんざりだ。「百合」という概念に誰かがうっとりとするたび私の心が削られる、そんなことが起きていると知ってほしいし忘れないでほしいですね。私は実在する人間で「百合」を振りかざされるたびに傷ついてるんです。実害出てるんですよ。
ーcoyolyー

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