グラノーラ夜盗虫

燃ゆる女の肖像のグラノーラ夜盗虫のレビュー・感想・評価

燃ゆる女の肖像(2019年製作の映画)
4.5
「燃ゆる女の肖像」は原題の « Portrait de la jeune fille en feu »のほぼ忠実な訳。このFeu=炎は、女性であることによる理不尽な運命に対する怒り(結婚を強制されるエロイーズ、女性であるが故に作品に制限があるマリアンヌ、中絶の危険に晒されるソフィー)や、マリアンヌとエロイーズの間に生まれる熱情を表していると思われるが、映画を通して貫かれる落ち着いた描写や、登場人物の抑制した感情の演技が、この炎のような感情を際立たせている。

作品世界を通じて徹底しているのは男性の不在。男性は冒頭の船乗りと絵画を運びに来た使用人しか登場せず、また作品を通じて何度も何度も使用されるアップシーンが、これらの登場人物には全く適用されていない。この映画世界で役を与えられているのは女性だけである。

その世界で、マリアンヌとエロイーズ、そして使用人ソフィーがヒエラルキーのないシスターフッドを築き上げる姿が描かれる。この三人の連帯関係は、生理の痛みや堕胎といった女性特有の問題を通じてより強固となっていく。また島民の女性のみの謎の集会、その集会で築き上げられるうねりのようなコーラスは主人公三人の女性全体を包み込むように描かれ、女性としての連帯を強調づけるシーンと思われる。その三人の自由な理想郷のような空間は、男性の退場(冒頭の船乗りたち)と家父長制の象徴たる夫人の不在に始まり、男性の登場(絵画を運びに来た使用人)によって終わりを告げる(この使用人がヒゲモジャの中年男性であり、世界の終わりがビジュアルにもわかりやすく描写されていて少し笑った)。女性のみのはかない理想郷はあまりに美しく、あまりに夢のようであった。
 
この映画では、いわゆる見る/見られる関係性が、画家(見る)とモデル(見られる)、画家であるマリアンヌとそのモデルであるエロイーズ、ギリシャ神話である「オルフェの冥界下り」におけるオルフェ(見る)とその妻(見られる)といった形で作品の根幹として扱われている。
まず、マリアンヌは画家としてモデルであるエロイーズを観察するが、実は見られる対象であるエロイーズもまた画家であるマリアンヌを見つめている。この相互性はふたりの愛の関係を表している。
そして、画家-モデルの関係性と、「オルフェの冥界下り」のオルフェ-オルフェの妻の関係性が提示され、さらに登場人物のあり方と交錯する。マリアンヌとエロイーズ、ソフィーの3名で「オルフェの冥界下り」を朗読し、(記憶が定かではないのだが)なぜオルフェが(妻を失う結果になると了解していながら)思わず振り返って妻を見てしまうという行為に至ってしまったのかという議論になったとき、マリアンヌはそれを「詩人だから」「振り返って妻の記憶と共に生きることを選択した」と解釈する。これはアーティストである自身とオルフェの立場を重ねるものである。そして、エロイーズはこの会で「振り返って私を見てと妻が望んだのではないか」という妻側からの解釈を提示し、振り返るまいとして屋敷を去ろうとするマリアンヌに対しても、「私を見て」と叫び、それを重ねるような行動をする。ここまではマリアンヌ=見る者=オルフェ、エロイーズ=見られる者=オルフェの妻という構成が成立している。
一方、最後のシーンではその立場が倒錯する。マリアンヌが一心にエロイーズを見つめることになるが、エロイーズは決してマリアンヌを振り返るまいとする。このラストの解釈が大変難しかったのだが、おそらくこれは、ソフィーにとっての刺繍(枯れゆく花束をその花ざかりのまま刺繍にするシーンが象徴している)や、マリアンヌにとっての絵画(エロイーズの姿を自身の手で留めることができる)とは異なり、芸術というすべを持たないエロイーズは、「見られる者」に終始しており、ふりかえった際にその記憶をもって自身の手でマリアンヌを永遠とできないことによるのではないだろうか。振り返ってその記憶を留める術のないエロイーズは、振り返ることでエロイーズを失うことを望まないのである(振り返って恋慕の感情が舞い上がるも、それを芸術というかたちで留めることができず、たとえば駆け落ちといった手段を選ぶことになるのだとすれば、当時の女性を取り巻く社会状況を踏まえると、その先の2人にあるのは社会的な破滅であるし、その恋慕の感情を芸術作品として発露できずに自身にとどめるのであれば、精神的な狂気さえ生まれる可能性もあるだろう)

前述の要素は抜きにしても、カメラワークも演技も演出も舞台も脚本も美しく、まさしく耽美的な作品であった。監督の意図がすべてわかったらどんなに嬉しいだろうと思う。また必ず見たい。