KnightsofOdessa

バクラウ 地図から消された村のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

5.0
[横暴な権力へのある風刺的な反抗] 100点

田舎への未舗装路を爆走するトラックが道端に落ちた木棺を轢き潰す。祖母の葬式のため久しぶりに帰郷するテレサはその衝撃で飛び起きるが、彼女を乗せたトラックは事故現場を一瞥して通り過ぎる。そもそも宇宙空間で星を眺めているファーストカットから地球に降りてきて始まる本作品は、現代のウエスタン(特に『荒野の七人』)でありモダンホラーなのだ。しかも、主人公のように思えたテレサがバカラウの村に到着すると、主人公は村そのものに入れ替わってしまう。どう転んでも奇天烈な映画には変わりない。『Neighboring Sounds』(2013)や『アクエリアス』(2016)といった衝撃的な作品を世界に送り出してきたブラジルの俊英クレーベル・メンドンサ・フィリオが、過去二作のプロデューサーだったジュリアノ・ドルネスと共同で製作した最新作である本作品は、カンヌ国際映画祭に出品されて絶賛され、審査員賞をラジ・リ『レ・ミゼラブル』と分け合った。前作『アクエリアス』で長編二作目にしてカンヌ組に仲間入りしたフィリオ&ドルネスにとって順調なキャリアコースと言えるのではないか。そして、近代化の悪い側面への反抗や自分の居場所から断固として離れようとしない部分など、過去作品からの連続性も垣間見える。しかし、その二作よりも断然直接的で暴力的なのは、現在のブラジルがより危機的な状況にあることを伺わせる。

物語の始まりはテレサの祖母の葬式であり、そこで喪主を務めるテレサの父ピリーニョ、テレサの昔馴染みのパコテやその仲間たち、村の女医ドミンガス、村の果てのダムに逃げ込んだ指名手配犯ルンガなど主要な登場人物をステージに出してくる。同時にバカラウが抱える問題も提示する。水は止められているためテレサが乗ってきたトラックが供給しており、食料の供給も止められている。天気予報やニュースは地元のDJがマイクに向かって読み上げている。そして、彼のバンの後ろにくっつけた巨大ディスプレイにはYouTubeと思わしきビデオを流す。事実上、バカラウは権力から見放されているのだ。しかし、ただの"遅れた"村なのかといえばそういうわけでもなく、学校ではスマホやタッチスクリーンを使った授業が日常的に行われていることが分かる。"何年か後"という冒頭の設定のごとく、本作品での隔絶された土地バカラウの状況は現在のブラジルと陸続きであり、近代化の良い面と悪い面を同時に提示しているのだ。それらは同時に暗示的で多層的であり、それが故に何を観ているのか不思議な気分に陥ることもしばしば起こる。

現代のブラジルとの類似性が凝縮したシーンは再選を目指す市長トニー・ジュニアの登場シーンだろう。水が止まり、道は未舗装で、悪党(ルンガ)はのさばっている状況の中、自分でダムを止めて水の供給を停止したくせに食料や医薬品を"提供"することで点数稼ぎに奔走する姑息なジュニアは村人に心底嫌われている。これは現在のブラジル及びブラジル大統領ボルソナロに対する国民感情にそっくりだ。序盤から中盤にかけて、映画はこんな感じのねっとりとした描写でブラジルが置かれた現在の状況を間接的に提示し続ける。

中盤まで続く非日常の日常風景は様々な形で彩られる。既出のトニー・ジュニア登場、UFO型のドローンに追い回される男、近隣の農場から逃げ出してきた大量の馬、銃槍だらけの水運搬トラック、そして鮮やか過ぎるライダースーツで身を包んだ男女二人組のバイカーの登場。そのそれぞれの描写がウエスタンというジャンルの語り口を借りながら、それを再構築しようともがいている。途中で挟まれる風景のショットなどは、ウエスタンでよく見るモニュメントバレーの遠景に重なってすら見えてくる。旧式なワイプやフェードで場面転換などを行うこともあり、その語り口の多彩さにも驚かされる。奇妙なのは水不足なのに木々が青々としていることだが、これについてフィリオとドルネスは"撮影困難なほど雨が降った"と明かしながら、"水不足でありながら自然が豊かという逆説は、いくら蔑まれても尊厳を失わないバカラウの人々に通じる"としている。
加えて、バカラウが村ごとデジタルマップから消され、住民たちのスマホが使えなくなるというモダンホラーにありそうな設定をウエスタンで繰り返す。これによってバカラウを前時代に引き戻すだけでなく、次なる展開における対比にも使われ、且つ国から見放されたという設定すら補強するというスマートさには感服。

水や食料、医薬品の供給を絶たれ、ついには地図からも消されていたバカラウの村に次なる事件が降りかかる。それがウド・キア演じるマイケル率いる白人殺人集団の登場だ。バカラウの村人たち、ルンガ一味、ウド・キア一派という三者が出揃ったところで、漸く物語が大きく動き始める。バカラウを攻撃せんと入念に準備を重ねていたこの殺人集団は全員が英語話者の白人であり、彼らがブラジルにある田舎の村をぶっ潰そうとしているという構図は、PUBGなどのゲーム的な側面が強く描かれている。欧米列強の企業による帝国主義的な侵略の苛烈な暗示であり、彼らはゲーム感覚でブラジルの国土に土足で踏み込んできて荒らして回るのだ。彼らは理由も明かさず、予定にない殺人を嫌い、原始的な武器で"攻略"していこうとする反面、反撃されたら泣きながら命乞いをするし、初めて人を殺したら歓喜のセックスをするし、女子供は殺さないなどの流儀まである。彼らが襲うのはバカラウじゃなくてもいいし、正直どこでもいい。ある種のサファリツアーや密猟といった感覚だろう。そのような点で、『荒野の七人』などのウエスタンとはまた別の奇妙な側面が浮かび上がってくる。

同時に、襲撃されることが分かった村人は逃亡犯ルンガに助けを求める。彼はバカラウの出身者であり、素直に援助要請に応じる。彼のモデルはLampião (ランピアォン)と呼ばれるブラジル北西部に実在した義賊のリーダーだろう。そして、ここでもう一つの議題である巨悪に悪で対抗するのは正義なのかという問いが発生する。明らかに話の通じない異常者集団に対して無防備でやられ続けるのはおかしいが、だからといって対話を求めるのも、はっきり言って有効な手段とは言えない。そして、映画としてのこの問いへの解答は、冒頭でほとんど離脱したように見えたテレサに戻す。都市に暮らす医師であり、文明或いはそれを貫通して権力とバカラウを結ぶ存在として登場していた彼女の苦虫を噛み潰したような表情こそが、これまでの/これからの苦難を如実に表していると同時に、"自分の自由は自分で勝ち取らねばならない"という基本原理を教えてくれる。

同じく横暴な独裁者を抱えるフィリピンからラヴ・ディアスが『停止』でストレートにクソな大統領とその命を狙う革命派の話を描いていたが、ディアスは"子供への教育を施して歴史を繰り返す文化から根こそぎ取り替える"ことを説いていた。それに比べると本作品はエンタメ的で、"やっちまえ!"と言わんばかりに回収していく様は観ていて小気味はいいが、それで根本的に解決するわけでもなく、やはり安易な結末は用意されない。捕えられたウド・キアが"まだこれからだぞ"と捨て台詞を吐く通り、ブラジルの混迷とそこからの脱出はまだこれからの話なのだ。

※インタビューより

ブラジルの内陸北西部のことをSertão (セルタン)と呼ぶが、ここで暮らす人々はほとんど白人の集落と、逃亡奴隷の子孫たちが集まったQuilombo (キロンボ)と呼ばれる黒人の集落にほぼ完全に分離されているらしい。フィリオ&ドルネスは黒人奴隷の抵抗の歴史を組み込みながらセルタン地域全域を圧縮するため、彼らを一つの集落に混ぜたらしい。また、バカラウでは間接的にテレサの祖母カルメリータを頂点とする家母長制を採用していることが示唆されるが、これもキロンボの特徴らしい。

カポエイラのシーンは脚本になかったが、俳優たちは自発的に踊り始め、カメラを回すことにしたのだ。後にジョン・カーペンター『Night』をオーバーラップさせることにした。こうして、拍手のリズムからエレクトリカルな音楽が流れ込むことで、伝統的なカポエイラがインダストリアル音楽に侵略されていくという作中最も印象的なシーンが出来上がった。
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