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家族を想うときの海のレビュー・感想・評価

家族を想うとき(2019年製作の映画)
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この生活を知っていた。どん底に居るこの家族が不幸だとか可哀想だとか判断するだけの心の余白も見つけられないほどに、いつかわたしが確かに、知っていたものだった。人間はたぶん、苦しい想いをすればするほど賢くなってしまう生き物だ、高じて上に立てる人間も居れば祟ってどこへも行けなくなる人間も居る。わたしの家族は皆後者だった。母も妹も、誰かを完全な悪者にしてしまうことができずその分だけ自分が苦しむような、強いのに、それでも優しすぎるひとだった。そのたび思った、代わりにわたしが抗議できたら、発言できたら。この苦しみが終わるならいっそわたしが殺してあげるわと思ったことだってあった。あの時、家族の皆が、お互いに、きっとそうだったと思う。自分の未来を家族の今のために差し出せと言われれば一瞬も迷わずそうしたであろうあの時期をわたしは、いつの間に、どうやって乗り越えていたんだろうか。
filmarksを始める少し前、わたしは、「何を書くか」が「誰が書くか」に勝ることはあまりにも稀であるという事実に、ひどく打ちのめされていた。10代の頃から色んな掲示板やSNSに言葉を書くということをしてきて、今と同じようにコミュニティに入っては語り合い、伝えるということの難しさに躓いては辞め続け、それが続いた時期に、「これで最後にしよう」と思って自分がずっと愛してきた映画という場を借りて、言葉を書き始めた。それからずっと「自分に与えられたこんなに沢山の苦しみや痛みは何のためにあるのだろうか」という疑問に少しずつ、本当に少しずつ返答を繰り返してきた。ある時に書いた文章が、「映画」をそして「わたし」を、超えていったのを感じた。幼い頃からずっと身近にあった映画の存在は、わたしにとって、自分の苦しみや痛みを理解してくれるもので、その苦しみや痛みの中にありながらも確かに感じている幸福を信じさせてくれるものだった。同じになれたとは思わない、この手も、声もまだ小さすぎる。でも、ただ、映画にすくわれてきたわたしが今できることはこれなのかもしれないと、自惚れた、信じた瞬間だったんだ。
このひとたちはきっとどうにかなって、十年後にはこの時のことが笑い話になってるかもしれないし家族の誰かが不意に切り出すまではすっかり忘れてるかもしれない。それは美しいことで、一緒に乗り越えた苦難の数だけすごく美しい家族になるのだと思う。でも、それでもわたしには、このひとたちのためにしたいことがあった。このひとたちが変わりたい変えたいと望む時、わたしはその力になりたい。ちゃんと物事を見つめ知ることを、映画を観ることを、辞めたくないです。誰かをすくうことを、自分をすくうことを、諦めたくないです。これがどんなに無責任な祈りでもいい、語ることを終わりにはしない。
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