IMAO

ダブル・サスペクツ/ルーベ、嘆きの光のIMAOのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

日本未公開作品だが昨年WOWOWで鑑賞。昨日ユーロスペースで行われた「映画批評月間 〜フランス映画の現在をめぐって」の上映イベントの一本としてスクリーンで鑑賞出来た。原題は「ROUBAIX, UNE LUMIERE(ルーべ、一つの光)」(この邦題は酷すぎる^^)

これは人が自分を演じてしまうことについての映画だ。二人の女がいる。貧しく最低の生活を送っている。その近くで老婆が殺される事件が起きる。二人の女は容疑者として警察に捉えられ、尋問され自白してゆく……

この手の話は日本でもたくさんがあるが、この物語が新しいというか特異なのは、結局彼女たちが本当に犯人だったのか?自白は誘導尋問だったのか?その辺りの結論をデプレシャンは出さない。そして尋問する刑事たちも一人の人間として描く。彼らは地元生まれの警察署長だったり、まだこの地へ赴任したばかりの情熱ある刑事だったりする。彼らは彼らで仕事を全うしているだけだ。普通、この手の映画なら容疑者と警察には明らかなヒエラルキーを際立たせるのが常套手段だが、デプレシャンはあえてそれをしない。厳しい尋問をまるでドキュメンタリーの様に淡々と撮る。その尋問の中で起きるのは、容疑者として捕らえられた二人が次第に自身を「犯人」として演じていってしまう様だ。その描写が恐ろしい。でも繰り返す様だが、刑事たちもあくまで冷静に自らの仕事を行っているだけだ。彼らもまた「刑事」とう役割を演じている様に見える。そしてには彼らにも家庭やプライベートがある。それを同軸に描き出すことで、彼らを単なる「悪人」としては描かない。要するにデプレシャンはこの映画を通じて、誰も裁こうとはしない様に見える。その姿勢が非常にフランス的というか、興味深い。

と、ここまでは昨年鑑賞後にメモったレビューだが、昨日のユーロスペースでの鑑賞後、フランスのアルノー・デプレシャン監督と日本の青山真治監督とのオンラインセッションがあり(司会:坂本安美氏)いくつか興味深い話を聞くことが出来たので追記しておく。
この物語は現実に起こった事件のドキュメンタリーが元になっているそうだ。そして主演の四人(刑事二人と犯人を演じる女性二人)はプロだが、その他の人はこのロケ地であるルーベという町の所謂「素人」と呼ばれる普通の人々を起用したそうだ。ただし素人といっても刑事役の人にはその町の実際の刑事だったり、検事には実際の検事だったりと、その道のプロを「役者」として起用している。素人を使うのは映画史を辿れば別に珍しいことではないが、この映画の場合別の意味を持ってくる。この映画ので刑事が犯人の女性たちに自白を迫るのだが、その時に「いいか?お前は自分自身を演じるんだ!」と言うセリフがある。これこそこの映画のテーマだし、そう言っている彼ら自身も自らの職業である「刑事を演じている」のだ。その一方で、プロの役者四人には書かれた台詞以外のことは一切言わせなかったそうだ。つまり素人にはある程度即興の余地をあたえ、プロの俳優には「台詞」という縛りを与えたのだ。でもその境目は見ている分にはまったくわからないほどナチュラルだ。
このことからも分かるのは、人は如何に自分を演じているか?ということだろう。僕自身も仕事でテレビ番組などを作ることもあり、市井の人々が出演するドキュメンタリーなどを撮ったこともあるのだが、所謂「素人」でも自分の職業や仕事をしている時はカメラ前でも堂々としているし活き活きとしている。つまり、それはその「職業」を日常的に「演じる」ことに慣れているからだろう。そうした誰もが行なっている「演技」というものが時に人を自由にし、時に不自由にする。この映画はそうした事実を興味深く示唆している。

この映画の舞台となったルーべのいう町はベルギーとの国境に近い街だ。(自転車好きな者ならパリ、ルーべ間のレースを知っている者もいるだろう)その荒廃ぶりが映画の背景として描かれるのは、何もデプレシャンがこの地出身だから、というだけではないだろう。そこに宿る問題はフランスだけでなく、日本でも同時代的に進行していることだからだ。
IMAO

IMAO