せいか

シェイクスピアの庭のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

シェイクスピアの庭(2018年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

8/6、Amazon videoでレンタルして視聴。字幕番。シェイクスピアが主人公だってということでそこに興味を持って観ることにしたけれど、恐ろしいほどに私好みの重さを持った作品で、見ごたえがある名作だった。彼の人生や作品にそもそも興味があるから観たわけなのだけれど、その両方から刺されもした。シェイクスピアへの愛と喝采を。


以下、視聴メモ。


原題は「All Is True」。文字通り、現実、真実といったものがキーワードになっている作品である。シェイクスピア俳優として名高いというケネス・ブラナーがシェイクスピアを演じ、かつまた本作の監督も兼ねている。
これがたぶん何らかの賞を与えられてないつぽいのって嘘でしょ?!?!?!

グローブ座が消失して故郷であるストラトフォードにある家へと隠居した晩年のシェイクスピアを題材に取った話。
だが、家庭や土地と距離がある晩年の男という存在以外にも、女と婚姻、家庭というものも話の中心に据えられていて(そしてその中心を遺産という金銭が貫いている感じ)、単純にシェイクスピアを主人公にしたお話ですというわけではなく、かなりの人間ドラマになっている。シェイクスピアの晩年を描いてそれを組み立てながらも普遍性をきちんと織り込んで骨太の作品に仕上げた感じ。
また、自分が実際に交流すること、その人と現実を交わすことということにも重きを置いている。「現実の像」と「虚構の像」が空間的、時間的隔たりによって余計に顕在化しやすくなっているのが本作で描かれるシェイクスピアの晩年なのである。
「こういうものである」という想像と押し付けに伴う呪いがあらゆるものに降りかかり、災厄となり、呪いになり、傷になる。そしてそれは容易には払拭できず、またそこから立ち直ることも難しい。
人は自分自身を呪い続けもする。自分にレッテルを貼る。そして余計に怯えることにもなる。これもまた上記の混沌の中で綾となる。
人間の生は暗い。救いもない。他人と心が近付くときはほんの一瞬あるかないか、それこそ夢まぼろしのようなものである。他人とも自分とも向き合ってもあるのは闇か幻想ばかり。
それでもどこに救いはあるのか。その光はラストに投げかけられ、輝いている。これは一人の男が自分と向き合う話であり、現実と向き合う話であり、暗いばかりの人生を再生する話でもある。痛みとともに。ひたすらつらい話の連続だが、それでも最後にそう語られるように、報いはあるのだ。


+++(以降さらにメモもメモである)


帰ってきた彼を家庭はぎこちなく迎える(娘夫婦なんかは財産の話を夜中にヒソヒソとしている)。いわく、20年近く足が遠退いていた彼がこうして帰ってきたことに対して距離感があるのである。妻はあなたは客のようなものだと言い放ち、寝室も別にする。娘がシェイクスピア本人に直接言うように、母は夫がここにいるから「妻をやり直す」ことを強いられているようなものでもあるのだ。刺さる。
それどころか故郷という土地そのものにあっても彼はもう異郷人に等しく、その生活、風土と折に返してやはり距離がある(※彼自身は穏やかにそれに従うのだが)。

シェイクスピアのほうは幼くして亡くなった息子のために庭を作ろうと思い立つが、メイドにも妻にも、庭を作るのと芝居を作るのは違うのだと暗にその行動を嗜められる。妻に至ってははっきりと、息子のために作りたいのではなくて、詩人としての人生を終えた自分のために作りたいのだろうと言われる始末である。なんかこういう、ずっと家族を省みなかったひとが突然すり寄ってくる感じ、しかもそれが家族からすると自己満足でしかない感じ、現実にもままあるよなと、開始早々から胸がぎゅっとなっていた。
仕事がなくなって年も取って、自分には家族がいるからと当然の権利であるように無遠慮にすり寄っているのだと思うと、なかなかこの冒頭シーンはきっっっっつい。わがこととして実際それに関してムカついてることがあるので余計きっっっつい。もちろん、他人のことなので勘案要素はあるのだが。
とはいえ、長女一家のように、家族がずっと一緒にいればそれでいいというわけでももちろんない。つらい。

また、息子のことは彼の拙い詩を通して分かっているつもりだとシェイクスピアは言うのだけれど、この、等身大の存在を見てはいない表現がまた刺さるし、妻ははっきりそれを指摘してもいる。息子が亡くなった当時は悼むことよりも芝居に明け暮れていたくせにと(しかもこのとき彼が作ったのが『ウィンザーと陽気な女房たち』)。ただ、ここは、作家の価値観とそれ以外の人々の価値観の相容れなさでもあると思う。作品を通して作者を知ることもまあできるだろうし。とはいえ、それってやっぱり歪んだ認知行為ではあるのだけれど。作品=作者ではないのだから。彼自身そんなのは分かってるはずだけど、それが言えてしまうのだなあ。
とにかく、上述した、芝居と作庭(ひいては現実の暗喩)は違うんですよといい、冒頭においてシェイクスピアは現実というものを直視しないまたはしてこなかったひととして描かれている。それは娘に対する会話の中で彼自身が冒頭時点で認めていることでもある(「私は想像の世界にいすぎて 何が現実であり真実なのか 見失っている」)。それが分かってて、家族に露骨に敬遠されていても傲るところや鈍いところを見せないのだからシェイクスピアもしっかりしてはいるのよな。それができない人なんぞアホほどいるので。なまじ人間を描いてきただけあるのかもしれない。

次女が、長男が死んでから私達はずっと悲しんできたのに、父親のためにまた一からそうすることを強いられる理不尽に怒りをぶち撒けていたり、とにかく観てるこっちは数分ごとに「この距離感よ」とつらい気持ちになるばかりである。
少年のままで記憶に留まる息子というのもなかなか酷い。そうしていいように捉えた人物像のみが跋扈する。娘に詰られれば、現実に今いる彼女にはつい「穀潰し」と言ってしまったりする。ままならない。
あとこのやり取りのときに次女が、「女の務めは知ってる お父様が何を望んでいるのかも」と言い返すのがまたつらい。後のシーンではシェイクスピアが彼女に、女の夢は子供を産むことだろうと尋ねていたりもする。良好な家庭を持ち癒やされるのが良いのだと、自分自身は棚に上げて。女、女よ。呪いである。
中盤過ぎで彼女は、息子をなくせば嘆くけれど、娘はそうではない。だっていつか他人の所有物になるのだからとも発言するのがまた痛々しい。

とはいえ、娘も妻も、真正面から彼との距離を指摘するのだから大人であるというか、ちゃんとそういう形で現実を伝えようとコミュニケーションするのが誠実でもあるし、ある意味健全な関係にあるとも言える。ひどい抑圧があればまずそのコミュニケーションさえ取れずに我が物顔の父ないし夫を遠巻きに存在させておくことしかできないものな。

次女のジュディスは未婚で、晩年を迎えた父の帰還を前に己の行く先の不安を意識するしかない。家庭を持たない自分には遺産の当てもなく、彼女自身それを「自業自得」と呪う。つらい。母がすぐに、自分を許せないのにどうして神に許せと言えるだろうと指摘されるけれど、彼女の現実はまさに現世での行く先の不安にあるのだ。
このシーンの直後に長女と思い出の場所を散歩しながらシェイクスピアが、若い頃に自分の人生が終わったと思った過去(と子供たちの思い出)を語り聞かせているのがなんだか皮肉というか。同じ先行きの不安を立て続けに描きながらも男と女、若さと老い、成功と不成功の対比になっているというか。それに子供たちの話も本当に小さかった頃の外遊びの記憶しか語られないところとか、ここで亡くなった子に詩を見せてもらったのだとか、現実だけどもうすでに膜に包まれた過去を振り返っているだけだったりとか。開いてしまった距離感を取り戻すのって難しいんだなとしみじみ思うというか、もはや取り戻すのは不可能なので、それは切り捨てるしかないんだなと思ったり。

ピューリタンである義理の息子(長女の夫)からは自分のやってきた仕事はひたすら否定され、過去の過失がやり玉に上げられ、こうした形で彼自身が今ここの現実を見てもらえないというか、なんというか。この異物扱いも現実ではあるのだけれども。
次女は芝居を否定するそのピューリタンにシェイクスピアの遺産が入ることになるのだからクソったれの偽善者だと形容もする。それはそう。彼は冒頭からずっと遺産のことばかり気にする描写をされている。周囲が憐れむほどの清貧を家族にも強要しておきながら金に執着するというこのムカつく野郎ぶりよ。
シェイクスピアも彼と仲良くなろうとはするがやはり親しむことはできず、早々に、彼に遺産が渡らないことを願う。とはいえ、妻の財産は夫の物にもなり、自由に扱えるようになるという現実があることが問題として浮上する。こういうクソったれシステムと社会、女というものにも目を向けているのが本作である。実際、晩年のシェイクスピアを語る上で、このピューリタンの義理の息子が関係したのだろう不倫騒ぎ(冤罪だと思われる)だとか、次女の夫の貫通騒ぎとか、そうしたものが彼の重荷として欠かせぬ存在になっている。

余裕のなさが言動のひねくれたところにも出てしまっているのだろう次女はあけすけに、過去の時点で認識が止まっているのだと父親に舌鋒を向け、過去の都合のいい可愛さがあった娘を基準にすることに怒り、自分ではなく息子が死んだことがやりきれないのだろうと、翻って自分が自分に対して思っているやるせなさで彼を刺す。このシーンの前にシェイクスピア自身は彼女の現実として淡々と年を取っていていまだに未婚であるという評価のみを下していたりもして、それしかない彼女という存在がまたつらい。女と婚姻、家庭。やはり本作の中心にあるのはこれなのだろう。
娘に手酷く言われて、私はそんなこと言っていない(=現実の私の言葉ではない)のにと妻にこぼしても、妻のほうは、「長年 他人の言葉しか 考えてこなかったものね」である。ひたすら刺してくる作品である。

長女の不倫冤罪騒ぎの中で『タイタス・アンドロニカス』が引き合いに出されて、アーロンの存在が語られるのだけれど、妻からしたらアーロンは好青年(という側面もあって)と語られているのもなかなか印象的。全体的には残酷性がものすごくて無茶苦茶な社会に対する引っ掻き回し役というキャラクターなのだけど、その人をどう捉えるかということよな。
この不倫騒ぎのときは娘夫婦が長女を産んでから5年間次子を生む気配がないこと(子供がいることという大前提で話されているのがチクチクするところである)、夫婦間が冷え切っていること、梅毒の薬になる水銀を入手していたことから、夫または娘の不倫をシェイクスピアが疑っていたりもする。現実がどうなのかが分からない、判断できないのである。そこでまた次女がひねくれたことを言って、彼自身の現実としてはただ娘を守りたいことにあることが吐露されもする。だが返す刀で次女も言うように「現実はどこにもない」のだ。距離感よ。

シェイクスピアのもとに信奉者らしき青年が訪れたときには相手から、あなたは世界の全てが分かっている。それはなぜかと問われる。もちろん、そんなのは作品から作者を捉えた一方的な理想像である(そしてこれは冒頭の息子に関するシェイクスピアの発言を刺すものでもある)し、シェイクスピアもそんなことはない、想像力で書いたのだと否定する。それなのにそのまま相手は、ならばなぜ14歳で中退して旅もしなかった人があれだけ書けたのかと残酷に言葉を重ねる。ここで怒らず、うんざりもせずに、これまで自分が吸収してきたもの、自分自身と向き合ったからだと答えられるのは偉い(そしてまたこれは彼が自分と徹底的に対話してきたひとであることが良くも悪くも浮かび上がる)。「作家になりたいなら 人のために人と話せ まずは自分と話し 内面を探れ 自分の魂の内にあるものを 人間性だ 自分に正直であれば 君が書くものは── すべて真実だ」。この、ひえーっという発言の後に青年はもちろん、ならなぜ断筆したのかとさらに言葉を重ねるけれど、こうしてやっと彼も声をわずかに荒げて追い返す。手から零れていく清水のようなやるせなさ。

過去は付きまとい、妻はソネット集が出版された昔をなじる。この村でも文字を読めるものはいて、散々あの詩集に苦しめられたのだと。シェイクスピアはあれはあくまで詩だし、自身の意志で世に出したのではないと弁解しようとも、彼女の静かな怒りは止まない。ここでも、作者=作品が切り離されないし、恣意的な解釈が付きまとう。そこに現実はない。あるのは距離と自分が想像した相手の姿なのである。
そのソネットに登場する美青年だと噂される第3代サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー(シェイクスピアのパトロン)が屋敷に訪れることに怒るのだ。あなたはずっと自分の体面は気にしていたけれど、妻のそれは考えてくれたことがあるのか?と。

結局屋敷に招かれたサウサンプトン伯は、自分の屋敷に招こうとした有志の浅はかさをなじり、彼も自分も結局、家柄で持ち上げられているだけなのだと吐露する。そしてその上で詩聖として生まれ育ちに関係なく大成したシェイクスピアを誉めるのである。これはこれでなかなかの成果主義的な感じ。盗人の息子ではなくアポロンの息子なのだという表現も、これはこれで現実を都合好く歪めているとも言える。シェイクスピアが何したってんだというくらいほんとあらゆる角度から(普遍性を添えて)刺してくる作品である。
それなのになぜ他人を前に萎縮して暮らしているのか、きみにはどんな詩人も敵わないのに。かのバイロンのように奔放さはないのか?と問うわけで、そう言うのも分かるけど、これもあくまで詩人としてのシェイクスピアの側面のみを見て発言しているだけなのだよな。
バイロン以外にもスペンサーなどの他の詩人たちは自分の人生(酒とか)によって先に死んでいったけれど、その中でシェイクスピアは生き残って快適に無事に過ごしている。20ポンドで紋章も作って紳士に成り上がった(※ちなみにこの紋章の銘は、「権利(または正義)の欠くことなかれ」)。サウサンプトン伯はあれだけの大作をなしてきた男がなぜそんな世俗的な世間体を気にするのかと問い詰める。それに対して彼は、自分の父親がなぜ教会に行かずに捕まったのはそもそもその場の半数に借金があったから顔が出せなかったのだと話す。伯の言う人生に殺されるようなことを彼の父こそがしたわけである。ゆえにシェイクスピアの行動がある。
今ではロンドンにはせいぜいジョンソン(※たぶんベン・ジョンソンのことのはず)くらいしかいないという言葉には、彼は私がギリシア語を解さないことをやり玉に上げたと語る。作中、シェイクスピア自身の過去の負い目がとにかく出てくるし、彼がいかに他人からの評価を気にしていたかも触れられる。教養のない自分を彼は意識しているのだ。そんな男が実力だけで這い上がったから世間に距離を置かれるし、実際世間ではレッテルが必要なのだというある種の強迫観念がある。でも、今では金もあり、家も紋章もあるのだと。切ないて。
でもきみには詩もある。ずっと後世の人々にも読みつがれるべき美しい詩が。そこでは私は永遠に美しく若いままのイメージで生きられる(!)とも言われて、あれはあなただけに捧げたもので、他人のためではないと返すのも切ない、切ないて。シェイクスピア自身の現実を反映した詩(※ソネット29)を暗唱して、自分にとって伯がどのような存在だったかどれだけ憧れていたかと打ち明けてもその想いは拒絶され、詩人としてのシェイクスピアを訪ねてきただけだし、その詩人としてのきみに別れを告げようとすら言われる。切ないて。都合好く切り刻まれて眺められる個性。しかもその詩を丸ごと暗唱され返され、最後に突き放すように「ウィリアム・シェイクスピア」と詩人の名前が付けられる。つらいて。
それなのに次女がやはりあけすけに言うように、伯爵が旅に妻を同伴していないことからいろいろと相手のことを無遠慮に勘繰る。イメージと現実。

シェイクスピアは次女と妻を前に理想の家庭という呪いをぶち撒け、私は家族のために必死に働いてきたんだと言い、違うわ自分のためよと返される。生活に余裕を与えているのに、家に不在であれば夫失格なのかと。私が才能一つで養ったのだと。刺さる刺さる刺さる。彼は自分のコンプレックスのために生きて、生きて、生きて、結果、報われない。
息子が死んだときも私はここに居なかった。でもどこにいたって疫病はあの子を殺しただろうとまたそこを繰り返して過去の夢に縋れば、耐えきれなくなった次女がその無想を破る。あの子は父が思うほど素晴らしくはなかった。すぐに話に上げている詩だって私が書いたものだったのだと(次女が趣味で韻を踏んだ文を考えていて、息子はそれを字の練習のために書き留めただけだったのを勝手にシェイクスピアが持ち上げたのだという)。そして妻も言う。あの子は普通の男の子だったわと。そしてそれを受け入れられない彼に次女はさらに「自分を見ていただけよ」と追い打ちをかける。つらい。
そして次女は、現実の息子は自分が父の期待に応えられる存在ではない事を理解していたからこそ父親が家に帰ってくることを恐れていたのだと打ち明ける。
これに関しても冒頭からそういった感じは提示されていたけれど、これでもかというほどの虚構のイメージと現実の応酬である。彼自身がとことんそれに惑わされているのである。家族そして距離感をさほど生んでいなかったはずの息子という狭い世界においてさえ。
それを突きつけて次女が、今も大事に取っていたその詩を、もう価値はない?読む気もない?と尋ね、シェイクスピアもあの子のじゃないとだけ答えて娘の才能だったことは認めないのがつらい。自分にとってこの次女は行き遅れの穀潰しの娘でしかないし、それが彼にとっての現実だったし、それを覆すこともできない(考えてみれば、冒頭の長女との散歩のシーンで彼女が、息子が姉たちよりもよほど臆病だったと指摘していたこともここにきて思い出されもする)。次女は大事にされてきた無価値の紙切れを破り捨てて燃やすしかないのだ。つらい。そしてその紙切れこそシェイクスピアの数少ない家族との絆(そして夢想的な絆の象徴)でもあったから無言の内に抵抗はしても、嘆く次女に火にくべられる。残った欠片を掻き抱くように集めて床に広げる彼の姿が本当に痛々しい。救いがない。助けて。

次女は字を覚えようとしたけれど根気がなくてそれが果たせず(長女は読める)、妻もシェイクスピアの妻となったから覚えたいと思ったけど果たせなかったのだと妻から打ち明けられる。そしてかなり年上だった自分が18歳のシェイクスピアと結ばれて身籠って不釣り合いだったことも。結婚許可証に名前を書く能力もなかったからバツ印を書いたのが恥ずかしかったことも。なのに夫はロンドンで目覚ましく成功し、自分は読み書きもできない。重荷になるかもと不安になったけれど、そんなのは杞憂だったことも。だってそもそも家にいなかったのだから。

シェイクスピアはその日の夜の内に次女のもとへ行って詩を書くことを勧めるが、次女は、とにかくずっと死ぬべきは自分だったのだと押し込め続けている。それに、弟は死に、父親の夢の中で生きていた幻さえ殺したのだと。そして自分は字も書けないしもう詩も思いつかないし女は詩人にもなれないのだとひたすら理由を積み上げていく。女であることの呪いである。(人々が求める)女の務めはそうではないのだと。そして、弟を奪った償いを自分はしなければならないのだと。シェイクスピアもその闇を前に再び沈黙してしまう。救いがない。つらい……!!!!

こうして中盤過ぎにはシェイクスピアは庭を相変わらずいじりながら、息子に詩の才能がなかったことを認め、別の側面を知ったことを受け入れる。そして自分には作庭の才能はなく、紙面に物を作るほうが向いていることも認める。それでもなお彼は庭を作ることを続け、それを妻も手伝い始めるようになる。言葉と距離が空白を少しだけ埋めて、二人は前進したのだろう。(やっと一息つける瞬間である。)
作庭の様子は打って変わって楽しそうで穏やかなものになり、寝るときも夫婦は同じ寝室に就くようになる。

だが、今度はここに次女の姦通事件が挟まれるのである。彼女は前から自分に色目を使っていた軽い男を誘い、そのまま共に寝る。そしてそれはすぐに醜聞として夫を通して姉に伝わる。清教徒の夫にはこれは受け入れがたく、だが姉はそれでも次女が幸せならと言って、名誉を気にするの夫に対し、私の不倫騒ぎのそれはどうなのかと声を荒げる。夫はあれは飲んだくれの男の狂言でしかないと切り捨てる。実際はどうであったかという深堀りはしたくないのだ。
次女はその女たらしと結婚することになり、シェイクスピアも早速遺言にその夫を加え、跡継ぎができることを期待する(彼女が苦しんでそれを為すことを宣言したことをやはり期待しているのである)。これで自分は罪滅ぼしができた、地域にも貢献できたと言うのである。家庭とかいう呪いよ。祝いの席で人々に温かく囲まれながら後継ができればいいという夢を当然のように語り、「家族がすべて」とスピーチもする。そこにいるのは凡庸な男である。凡庸で、あらゆるものに囚われた男なのである。社会慣習も過去のコンプレックスも何もかもがどこまでも尾を引き摺る。

次女は男が別の女を孕ませていることも分かっている上で結ばれていて、仮初の幸福に包まれた屋敷は日の当たる場所で暖かく、やがて妊娠した彼女を全身で祝福もする(このシーンのいかにも幸福そうなことよ。でもそれが子供への執着で成り立っているからこちらとしては怖い)。
長女の夫はこのときに次女の夫が孕ませて捨てた娘のお産に立ち会っていたが、その母子はそのまま死んでしまう。キリスト教において洗礼を受けていない名無しの子供は天国にも行けない。ある晩に次女の夫が無責任にも二人はやっていけると言って、次女もそれを肯定するように同じ褥に入っていたのだが。ここにきて長女の夫の静かな怒りを通して彼の印象が変わりもする。別の一面が見えるのである。ここにおいては彼は好感が持てる人間となる。

このスキャンダルはシェイクスピア自身に向けられる刃にもなり、彼と敵対関係にあるトマス・ルーシーがここぞとばかりに、かつての自分がそうであったように結婚を急いだのもこういうわけだったのか、蛙の子は蛙なのだと糾弾される。読み書きのできない妻では娘にモラルを教えられんよなと、とにかくここにきてまた彼の(そして家族の)過去が生々しい傷となって表れる。
そして議員である自分の仕事こそ誉めるもので、シェイクスピアのそれを貶しもするのだけど、ここにきてそれについてはややおとなしい態度でいた彼が、自分の仕事の偉大さを長広舌で捲し立てるのはなかなかスッとする。グローブ座を経営し夥しい人々の生活を支え、王族のためにも才能を振るった。娯楽と安寧を求める人々に癒やしを提供した。それは決して軽んじられるものではないのだ、それがなくてはあなたのように人生は無意味なものになるのだと。あらゆる創作活動や執筆業にも言える言葉の代弁でもある。そして伯爵と対峙したときに自分の仕事を否定されているようなものなのに立ち向かわないことを責められたことを受けてのものでもある。
妻のことに関してもあなよりもよほど品も知識もあるし、お宅の鹿をそもそもシェイクスピア家は盗んでいないと、ここにきてとにかく言い返す、言い返す。

次女の夫は、遺言の対象から外される。妻は庭作りを続けているが、彼は、自分がいないほうがうまくいくようだとぼやく。つまり、ここに帰ってこないほうが良かったということである。次女が生き急いだのもひとえに自分のせいであることを彼は理解しているのだ。

彼は教会で息子の死の記録を前にして、常に帯刀している息子の名を彫ったペンナイフで羽を削り、いつだってこうするときには息子の手がそれをするのだと想像し、物を書くときも息子が書いているのだと想像していたのだと打ち明ける。死んだのは自分のほうなのだと思ってきたのだと。人からよく問われた創作の原動力は息子がそばにいると考えていたからなのだと。
そうして涙する彼はまことに一人の父親である。(私としてはやはりその重さに家の呪いを感じもするが。)そして翻ってなぜ彼が書くことをやめたのかという闇を覗くことにもなる。息子の死(=現実)を受け入れるためとも言えるのかもしれない。
だがそうやって記録簿を見て彼は他の死者の羅列も眺めている内に、疫病で死んだと聞かされていた息子がそれだとズレが生まれているのにやっと気がつく。死病はいわば草刈り鎌であり、短剣ではないのだ、あの疫病の死者がその時期に一人だけで済むはずがないのだと。
そして次女と妻を前にしてそれを問うても妻は隠し続けようとしたが、やはりここでも事を露顕させるのは次女である。
夜中に弟がいないことに気がついて母と池まで探しに行き、けして池には入ろうとしなかった弟が死んでいたのを見つけたのだと。その周辺には私が作った詩を書き留めた紙が散乱していたのだと。そして母親はその死因(遠回しに自殺だと思わせている気はするが、真実はやはり分からない)を誰にも分からぬように布で包みこんだのである。そして牧師も病死を認め、こうしてあの子は天国へと他の子たちのように行けたはずだし、神はあの子を受け入れるはずだと。
次女は再び、私があの子を殺したのだと嘆く。あの子はお父様を喜ばせたがっていて、お父様の関心もあの子だけに向いていた。あの子の関心もお父様に向いていた。私は嫉妬した(この吐露はシェイクスピアが持っていた嫉妬とも重なる)。あの子は学校に行けるのに、私は女だから台所仕事に縛り付けられる。私も認められたかった、愛されたかった。だから、詩のことをは本当はどういうからくりなのかを打ち明けてやると脅したのだと。そうして弟を絶望させてしまったのだと。
妻はなおも息子は疫病で死んだのだとその隣で繰り返す。神も受け入れた。小さな嘘だったと。
もちろん遣る瀬無さばかりであるけど、ここにいたるまでに次女が言っていた、私達はずっと死を悼んできた、それをあなたは一からさせようとしているという発言の重さがだいぶ変わってくるのだよな。ここに至るまでまだまだ彼は家族の輪から外れたところにいて、何も知らず、いまさら過去と向き合った。異常にもいまさら気がついた。この距離感。

冒頭、イマジナリー息子が僕の物語は終わっていないと語っていたけれど、ここにきて夜の池において彼は父親にやっとそれが終わって休めることを告げる。シェイクスピアは留まってくれることを願うが、息子は、『あらし』の有名な一説である「We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.」を暗唱する。われわれは夢と同じもので作られ、眠りによってそれは終わるのだ。
彼は息子がいなくなったベンチで夜を明かして「眠り」、風邪を引き、以降、彼は衰弱していく。

ラスト、友人でもあり、心密かにシェイクスピアが嫉妬する対象の一人だったベン・ジョンソンが屋敷を訪れ、人生とはままならないことを話し合う。そして自分も子供を数人なくしたし妻には嫌われている。だがきみは娘が二人いて妻もいるではないか。きみはイングランドを支配して家に凱旋したひとではないか。どこがささやかなものだ。第二の人生がどんなものであれ、きみのようなひとはほかにはいないぞと。「どの詩人も 侮辱され孤独に死んでいく」、そして自分だって国王にも嫌われていて、死ねばそのまま忘れられるだろうと。だがきみは家に帰った。友人も家族もいて家もあってその才能か作ったものは素晴らしい。羨ましいのだと(ここも例のソネットをほとんどそのまま反復している発言である)。さらにジョンソンは、だからきみの人生は分相応なのだと、彼の全てを肯定し祝福を向ける。祝福なのである。

庭には彼の家族が集い、妻はかつての結婚認可証に自分のサインを新たに書く。次女も長女から文字を習うようになり、いつか詩を書くことを伝える。シェイクスピアは大事にしていたペンナイフを彼女へと譲る。
彼は『夏の夜の夢』の第二幕第一場、ティターニアが「眠っている」描写を暗唱し、妻がその言葉を継ぐ。

そしてモノローグで彼の死が告げられる。ちなみに本作では、シェイクスピアは誕生日に死んだという説を採用している。
葬儀の席では妻と娘たち(=女たち)が『シンベリン』の「Fear no more the heat o’ the sun」を読み上げる。
「Fear no more the heat o’ the sun,
Nor the furious winter’s rages;
Thou thy worldly task hast done,
Home art gone, and ta’en thy wages:
Golden lads and girls all must,
As chimney-sweepers, come to dust.(…)」

そしてまたモノローグで語られるように、あれだけ固執されていたシェイクスピアの血筋は遠くないうちに絶えるのである。
せいか

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