QTaka

DaughtersのQTakaのレビュー・感想・評価

Daughters(2020年製作の映画)
4.3
喜びも、悩みも、多くの時間と共に共有した彼女たちの記憶を辿る物語。
二人の物語は、”小春”の記憶メモリーから語られる。
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三回目の鑑賞にして、物語に違う視点が生まれた。
冒頭の二人の会話がキーになっている。
休日の朝、二人の会話が唐突で妙(?)。
前の晩に飲み過ぎて、”彩乃”の記憶が飛んでいる事から始まる。
”記憶”って?
そもそも、記憶されていない?
記憶が消えて行く?
脳が記憶を整理して、要らない情報を消して行く。
脳の記憶容量が足りなくなっている。
外部記憶、クラウドに保存。
容量の貸し借り。
相手の元彼の記憶が自分の夢に出てくる…
話がどんどん展開して行くのだが。
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この映画は、小春、彩乃の二人を主人公に据えながら、主に”小春”の視点で語られている。
繰り返し出てくる回想シーン(彼女たちの日常)は、小春の記憶だろう。
一方の彩乃のシーンは、現在進行形の場面になる。
映画を見終わって、いちばん印象に残るのが、彼女たちのキラキラと輝くような日常だったのだが、それは、小春の回想、つまり小春の記憶であった。
さらに、小春のモノローグも効果的で、物語の節目を引き締めていた。
彼女たちの日常が、二人の共有する空間と時間であったことから、この物語が成立するのだが、それは、二人の共有サーバーに書き込まれた物語であったということになる。
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こうして見ると、現実と回想(小春サーバー)で二人の姿を追うことになる。
そこにアクセントとして挟み込まれるのが、二人それぞれが単独で過ごす姿だ。
彩乃の帰省シーンと、小春の沖縄一人旅。
物語の流れでは、ちょっと雰囲気の異なるこの二つの展開は、ふわふわと流れていた東京のシーンとちょっと違っていた。
それは、二人の視点を離れて、外の視点で見た時に分かる二人それぞれの姿だった。
この視点の切り替えが、実に鮮やかで、効果的だったと思う。
彩乃は、父にとって娘であり、おばあちゃんにとって孫であった。
お腹の中の子供は、おばあちゃんにとってひ孫となる。
それは、彩乃にとっても、改めて気付いた事実だっただろう。
小春の沖縄旅行は、日々顔を合わせている”彩乃”の姿を新鮮な目で見られるきっかけとなる。
自分たちの東京での暮らしを、改めて確認することになる。
この物語の中では、ちょっと違う雰囲気だけれども、重要なシーンになる。
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小春の記憶で語られたこの映画は、21世紀始まりの日本で生きる女性の姿を記している。
映画の持つ”記録”の側面がここにある。
仕事して、街を楽しんで、妊娠して、出産する。
女性の姿を一番近いところで、同じ目線に立って見つめた姿がそこに表れる。
その記録は、一方で自由な生き方と、キラキラ輝く姿を現しているけど、もう一方で、この時代の女性の生き辛さを示している。
この国の現状を痛烈に指し示していることになる。
シングルマザーで、働き続けたくて、現実はどうなのか。
決して優しくは無い現実に、一人ひとりの優しさが支えになっている。
そういう姿を描いていることに気付く。
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ステキなシーンがいくつもあるので、そちらに目を奪われてしまう。
楽しくて、優しくて、眩しい。
それだけの映画にも見えるかもしれない。
でも、冒頭の”記憶”のエピソードから始まる映画は、映画の”記録性”を意識しているように思える。
そして、物語を一方の主人公”小春”の記憶で辿ったのは彩乃の自由でちょっと身勝手な姿を受けとめるためだったのかな。
二人の物語は、こうして記憶で語られ、エンディングへ向かう。
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エンディングは、出産後、車で二人と赤ちゃんで遠出する。
おそらく彩乃の実家へ帰省かな?
車に乗り込み、二人が交わす会話。
彩乃「大丈夫かな?」
小春「ウン、大丈夫じゃない!」
記憶で語られる物語は、ここまでなんだろう。
ここからは、新たな日々が記録されて行く。
おそらく、あきらかに、サーバーの容量が足りない。
でも、それくらいいっぱいいろんな事が彼女たちの日々に溢れて行くんだろう。
そんなエンディングだった。
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このエンディングから、Chelmicoの”GREEN”が流れる。
こうして、”記憶”を辿る物語を意識すると、この歌はまさに映画のエンディングで、物語を回想するように聞ける。
この映画のこの先じゃなく、この映画で見て、聞いて、感じたことをまとめてくれる歌だった。
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映画館(イオンシネマ小樽)で一回。
ネット配信で二回見ました。
三回目でずいぶん印象が変わりました。
また、いつか見たい映画ですね。
以上、再掲分。

以下は、初見時の感想
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いつまでも終わりの来ない季節の中で、キラキラと輝き続けてきた二人。
そんな二人の姿の優しくなれる映画だった。
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ファッション業界で映像を手がけてこられた監督だからこそ、この時代に確かに生きているであろう女性の姿をスクリーンに投影することが出来たのだろう。
冒頭から、二人の姿は、きれいで、可愛くて、魅力的だった。
二人の日常も、仕事ぶりも、食事も、お酒も、羽目を外すところも、ぜんぶ魅力的だった。
それは、監督をはじめスタッフ達の日常や周辺の現在を投影したものなのだろう。
だから、その姿は、そこには有りそうな、あるいは実際に有ることしか無いようにすら見えた。
だから、この映画は、(たぶん)多くの今を生きる女性達に見てもらう映画なのだろうと思う。
この年(2020年)を過ごしている今、既にこの映画の風景が過去のものになりつつある現実からして、スクリーンに投影された二人とその風景が大切で、愛おしいものに思えてくる。
そのことは、この映画のもう一つの面に気付かせることになる。それは、時代の記録という意味だ。
映画は、その時々、その時代を反映することが有り、記録する意味がある。
正にこの映画は、21世紀初めの東京の女性達を記録している。
その生き方やその風景を、主役の二人はこの映画で演じたわけだ。
その役割を考えると、大役を演じきったのだ。
この映画の風景は、多くの女性達にとって、とても大切な季節を投影しているのだ。
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同級生の二人のルームシェア。
二人は、姉妹のようでも有る。
しっかり立ち止まることが出来る”綾乃”。
一人で考えて、勝手に悩んで走り出そうとする”小春”。
そんな二人だから、一緒に暮らせる。
互いの姿に、頼りながら、支えながら。
その日々を追う回想だけでも十分だったかもしれない。
想い出の中に、二人が生き生きとしている。
飲んで、唄って、騒いで、走り出す。
いつまでも終わらない季節がそこに有った。
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小春の決断までのシーンが印象的だ。
小春を演じる阿部純子さんの表情、仕草、行動…
人生最大のピンチ!
さて、どうする自分?!
という、葛藤と苦悩と苛立ちなど諸々。
その重大事を知らされた綾乃を演じる三好彩花さんの混乱っぷりの演技が際立っている。
その喫茶店のシーンでの、とりあえず食べる、味わうという結論の出し方がイイ感じだった。
このシーン、どうやってこの形に収めたのだろうと????しかない。
でも、絶妙だった。
そうして始まった、二人の「どうする???」な日々。
その間にも、お腹の中の存在はますます現実味を帯びて行く。
その診断シーンも重要なパートだった。
「姉です」と偽りながら、友だちだってバレバレなのも含めて、これまた絶妙な配置で、考えさせる部分や、人によって共感する部分にもなって行くのだろう。
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物語は、ここから渾沌として行くって事は無かった。
この物語に雑音は必要なかった。
ただただ、優しさしかなかった。
二人は、その困難を前にして、苦悩し、怯え、そして決断して行った。
彼女達の周りには、優しさがあふれていて、その優しさこそが力だった。
二人の前に立ちはだかった困難を、あっさりと受けとめてくれる沖縄の旅もイイポイントだった。
優しさあふれる魅力的なシーンの連続だった。
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家族の形態が変化してきている。
それは、若者の生活の姿にも関わってきている。
あるいは、既に若者の選択が多様化し、変化してきているのかもしれない。
どう生きるのが正しいとか、「こう有るべき」という人生の選択も様々だ。
むしろ、多様化した生き方に、それを支える知恵と想像力が求められているのかもしれない。
この物語の二人は、あるいはその新しい生き方を選んだのかもしれない。
ただ、そこには周囲の理解と支え、あるいは応援が有ったことを忘れてはいけない。
そんな生き方の多様性を様々な場面を交えて魅せてくれた映画だった。
「終わらない季節は、終わらせることも無い永遠の季節」で良いのかもしれない。
そして、新たな季節を選択するのも自由だ。
この映画、現代を生きる多くの女性の元に届くことを期待したい。
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映画の後、帰りの電車を待つ間に、エンディング曲”GREEN”をダウンロードした。
「髪の毛ぼさぼさ、アイラブユー♪
すっぴんだって、アイラブユー♫」
映画そのままだった。
スタッフロールのBGMでもあるけど、むしろ物語のおさらい的に、この曲を聞きながら回想するのがちょうどよかった。
Youtubeに見つけたPVも良かった。
優しさは、映画の中だけじゃなかった。
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