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アフター・マリア: 見捨てられた家族のdm10foreverのレビュー・感想・評価

3.7
【美しい港】

第92回アカデミー賞短編ドキュメンタリー映画賞部門のショートリスト10作品の中の一つ。

2017年9月にドミニカ、プエルトリコを襲ったカテゴリー5の強烈なハリケーン「マリア」。
この作品は甚大な被害とともに残された人々の苦悩を描いたリアルドキュメント。

これ、実に色んな角度から見ることが出来る作品だな~と感心してしまいました。

まずやっぱり「災害被災者のその後」に対する、社会の温度というものを改めて痛感させられてしまう。
これは、何もハリケーンマリアのケースだけに限ったことではなく、日本では「阪神・淡路大震災」や「東日本大震災」などの『特に甚大な被害が生じた災害』であれば、その後も定期的に報道されたりもされるんだけど、甚大な自然災害はそれ以外にもたくさん起きていて実際に多くの方が被害に遭われているし、未だに復興が終わっていないところや、もしかしたら復興そのものを諦めてしまった方すらもいるのかもしれない。

そう、「・・・かもしれない」。

災害が発生した直後は「ボランティア」「助け合い」「譲り合い」など、アドレナリンがずっと出っ放しの状態のまま、被災された方への配慮なんかも気にしたりしているんだけど、段々と日が経つにつれて、TVの番組が通常放送に戻るタイミングとシンクロするかのように、当事者以外の人の中では「過去」へと置き換わっていく。
でも、実際に被災され仮設住宅などでの不便な生活を強いられている方たちは、そこから更に続く苦労の中で「人知れず」生き続けているという現実がある。
TVが通常放送に戻ったタイミングで彼らの生活も「通常通り」に戻るのならそれでもいいかもしれない。
でも、どのタイミングからか「現在を生きる彼ら」が「過去の人」に感じられてしまうという不思議なねじれ現象が生まれます。

これはマスコミの報じ方にも大いに責任はあるだろうけど、どこか言い方は悪いが「一過性のブーム」のような捉え方をしている節もあるのではないだろうか?

そこに決して悪意があるわけではなく、その時は本当に心配しているし、自分に出来る範囲の協力も惜しまないでしょう。
でも、やがて時が経ち、マスコミが次の「旬」を見つけるのと同時に、いつの間にか「過去の出来事」に置き換わってしまう。
ある意味では「センセーショナルな出来事」としての脚光が収束するという点では良い事なのかもしれないけど、現実問題として、まだまだ支援を必要としているところに支援が行き届かなくなってしまうという現実は至るところで起きている。

これは「他国からの支援」の話ではなく、あくまでも日本国内の現状・・・。

そしてもう一つの視点。
今回登場する人々はプエルトリコで被災した三人の女性が中心となるんだけど、この「プエルトリコ」っていうところが重要なポイント。

≪植民地≫

プエルトリコって今でもアメリカの植民地だってご存じでした?
一応「自治連邦区」っていういい方はされているし、人民の国籍も「アメリカ」だし、主権はアメリカにあるし、国家元首は勿論アメリカ大統領。
だけどあくまでも「未編入領域」として「州」に昇格することもなく、いつでもアメリカの気分次第で介入できる(される)というとても微妙な立ち位置。

だから思いっきり平たく言えば「アメリカであってアメリカではない」という状況なんですね。

そんなプエルトリコが自然災害によって甚大な被害を受けた時、本国(アメリカ)がどういうスタンスで援助、支援を行うのか・・・。

『2005年以降、急激に増えたハリケーンの影響で、アメリカは数えきれないほどの米国市民の移住を受け入れてきた。その際、連邦緊急事態管理局は先頭に立って被災者の定住を支援してきたが、何故か「ハリケーンマリア」に際しては、それが継続されなかった・・・』

この「ハリケーンマリアに際しては・・・」ってところなんですよね。
それまでは「何があってもアメリカ国民は助ける!」がキャッチフレーズだったはずなのに、何故今回の「マリア」の被災者に関しては中途半端な形で支援を打ち切ってしまったのか・・・。

そこにプエルトリコが置かれている「アメリカであってアメリカでない」という微妙な立ち位置が関係しているような気がしてならないんですよね。

≪一応「アメリカ」だから支援はするけどさ・・・≫

被災者たちだって本当は生まれ故郷のプエルトリコに帰りたいけど、遅々として進まない復興のせいで帰ることも出来ない。しかし、アメリカ本土に残っても、仕事はないし支援も打ち切られる。

≪支援プログラムが終了した翌日からはホームレス用の施設に移っていただきます≫

遂にアメリカ政府は誇り高き自負を放棄して、自国の被災者を「ホームレス」と呼んだ。
いや、そもそもプエルトリコ人を見下しているからこういう発想になったのではないだろうか?

きっといろいろな柵(しがらみ)や政治的意図などが複雑に絡み合っての現状なんだろう。
分離、独立を認めるわけでもなく、かといって完全に「州」としてアメリカに編入するでもない。
そうしないのは、恐らく「今のまま」が一番バランスがいいということなんだろう。

でも・・・実際に被災した人々は「数か月」「数年先」のステイタスなんかより、今日を生き抜く方法を模索している。
そしてそれが出来るのはアメリカの支援しかないはずなんだけど・・・。

その他の災害によく見る「喉元過ぎれば・・・」ともまた違った意味での「アフター問題」。
仮に「ハリケーンマリア」がアメリカ本土で発生していたのなら、もしかしたら・・・・。


因みに、ハリケーンはアルファベット順に「命名リスト」というのが存在していて、発生順に「次はこの名前」というのが決まっているそうなのですが、この「ハリケーンマリア」は歴代のハリケーンの中でもTOP10に入るほどの強烈な規模だったらしく、金輪際「マリア」という名前はハリケーンには使用できない(引退)という扱いになっているそうです。

それほど凄いハリケーンだったんですね・・・。

アメリカは東日本大震災に際しても「トモダチ作戦」と銘打って、本当に尽力してくれました。
それは本当に感謝しています。
できれば、その力をこの人たちにも向けてあげて欲しいな・・・と心の中で悶々とした気持ちにもなってしまいました・・・。
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