せいか

犬王のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

犬王(2021年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

9/4、アマゾンビデオにてPrimeで視聴。
能楽にしろ源平にしろ室町時代にしろ興味があるのもあり、本作のことは認知していたが、だいぶぶっとんでそうなのは分かっていたため、放映当時から食指は動いていなかったが、まあ、観てみるかと思って観た。結果から言えば、予想していた通りのもので、私には合わないものであった。
タイミングを逃し続けており、原作は未読。映画のほうは微妙だったけど、作中から察するに、たぶん原作のほうは好きかもしれないので興味はある。


本作は足利義満の時代の話である。冒頭では現代においても尚、京の街に沈んだままの何者かの霊が(歴史や権力に)押し潰された声として登場し、本編にあたる物語を語るという(理解でいいのだろう)構成になっている。そして物語の終盤でその声の持ち主が劇中終盤近くで殺された友有であり、今もなお地縛霊と化して古び老いさらばえた姿となっていることが明かされる。その魂をやっと見つけ出した犬王が迎えに来ると二人は出会って間もない若い頃の姿に戻って成仏するのである。なのでちょっと構成は複式夢幻能的な構造になってると言えるのかもしれない。ワキ(聞き手)にあたるのは観客ということなのかなとも思うけど、聞き手に関係なく二人の世界を築いてどっかに昇天するので、さらに外野にいるような気はする。
琵琶法師という語り部であり、恨みを背負って恨みながら死ぬことになったまつろわぬ男の声が余韻のように現代にも夜闇の中に響き、押し潰された物語を語り、聞き手に拾わせるという詩情めいたものは好みではあった。その魂が救われているハッピーエンド自体も良いとは思う。良かったねという感じでしかないが。
交差点はたぶん四ツ辻を意識してるのだろうけど、たぶん処刑地は鴨川だと思うので、その鴨川がかつてはもっと川幅があったことを思うに、そこに今は交差点ができているということなのだろうか。

琵琶法師の友有はもともと壇ノ浦の漁師の子供だったが、京都の侍に頼まれて宝剣の引き揚げをすることになった父親に付き添って舟に乗っていたところ、本当に引き揚げられたその剣を抜いた途端に父親は死に、自分は盲目となるという、後天的に盲目(全盲ではなさそうだが)になった男である。ちなみに母親はたぶん発狂した。それで亡霊となって恨みを息子にさらけ出す父の声に従って彼は剣の引き揚げを依頼した人物への仇討ちのために流離うことになり、道中で出会った琵琶法師の弟子となって放浪のはてに京都にやって来る。
対する犬王は芸を磨くことに追い詰められていた父親の願いのその代償を無理やり負わされる形で母親の胎内にいるときに問答無用でその呪いを一身に受け、忌み子として人としてあまりにも歪な形をもってこの世に生を受ける。父親からは芸を仕込まれずに放置されていて彼も獣のように生きていたものの、独力で芸を得て兄たちよりも明らかな才能を開花させているが、父親はそれを認めない。
こうした中で二人の主人公は出会い、即意気投合し、タッグを組んで一座を形成し、みるみるうちに人々を熱狂させていったのだった……。

なのだけど、犬王たちの芸(源平の霊の声を聞ける能力を用いて新たな物語を拾いつつ観客に真新しいものを見せる)の奇抜さを表現するのにロックやブレイクダンス、現代舞台芸術的なものを取り入れて分かりやすく表現したのは確かになるほどとは思うけど、作中ひたすら続くことになるライブシーンが現代に即してそういう意味で分かりやすく表現しているそういう幻想的な舞台がまんま現代の舞台芸術とロックのオマージュで成り立っているので観ていて疲れてくる。物語ほぼそっちのけで彼らの舞台(ビカーッ)、舞台(ビカーッ!)、舞台(ビカーッ!!!)であるというくらいにはなんかそんな感じである。舞台シーンに限らず最初から最後までそういうのは思わされるくらいには悪目立ちしてるけれど、しみじみ、アニメーションだなあと思うというか。アニメーションの素晴らしい技術や美術を観させられてる感じがするというか。なんというか、やはり、疲れてくるのである。ひたすら歌って歌って歌ってるのとかも、たぶん劇場で観てたら、彼らの舞台を観て熱狂する観客たちのように舞台に同調してそうなるからというよりも、単にむず痒くてじっとするのが苦痛みたいな体験になってただろうなと思ったり。このへん、『夜は短し歩けよ乙女』のミュージカルパートでそんな苦痛を味わったことを思い出す。たぶん、作り手側としては、観客たちみたいに犬王たちのライブを観ることを目指してるのだろうなとは思うけれど。アニメのためのアニメとまでは言わないけれど、なんか、うーん。個人的にはうーんであった。時代に則して物を作ろうという話ではなくて、一つの創作物としてああいう表現をしてみるのもありだろうとは思うし、そこに引っかかってるのとはまた違うのだけど。なんだろな。言語化が難しい。

本作は課せられた呪いを解くという話でもあって、犬王たちの舞台は平家の彷徨える魂を癒やす力があったり、犬王のほうは芸を磨くほどに異形ではなくなっていき、最終的には呪い(を行う精)に頼って琵琶法師たちを殺し回る凶行にも走っていた父が才能に恵まれて時の人の目にも適う犬王に嫉妬しながらその精に無惨に殺されると同時に最後まで隠していた顔も異形ではなくなる。ただ皮肉にも彼の絶頂期はまさにその瞬間までで、以降は義満の下で飼い殺しされ、かつてのような舞台もできなくなるし、仲間たちも殺される。
友有のほうは後天的に盲目になっただけでなく、こちらも父によって重荷を背負わされている。彼の場合、盲目になったことよりも、父親の霊という形のない思念の恨みを一身に負うたことが呪いだと思う。一座で活動できなくなってからは犬王とも共に居られず(犬王は彼が生きた人質となっていると思って彼のためにこれまでの芸を捨てたのだけれども)、独り、満身創痍で足利尊氏の墓前まで行くと、彼が壇ノ浦の神器を求めたせいでそもそも自分はこうなったのだと歌い、捕まり、処刑される。
二人共、父親のせいで人生の歯車が狂い、呪われ、出会い、花開き、苦しみの中で散るのだから、なかなかである。呪いが解けた犬王は鳥籠の鳥のように芸を続け、彼と共にいる間は自分が背負わされた宿業を脇において飄々と過ごせていたのであろう友有は、最後に根幹ともなった自分の最初の名を叫びながら呪いの願いを果たすことで全てを奪われて散り、自身も呪いとなってこの先何百年と京都に縛り付けられる(最初の名によって地に縛られることになり、犬王による救いが数百年かかることになる)。
かつ、また、為政者による抑圧や被害みたいなものも含まれていたと思う。そもそも主人公に呪いを負わせる父親たちのその上で運命を翻弄していたのは為政者であり、主人公たちそのものを翻弄するのもやはり為政者なのであった。民衆たちのダイナミズムに対して政権にしろ父権にしろそれらは平たく熱がない。そのくせ結局は容易に相手を押し潰しもする。義満が、為政者側が定めた以上の語りはするなと犬王たちの平家物語を禁じたというのもこういう抑圧のわかりやすい例の一つである。このあたりの対比は特にいろいろ言ったけれども、舞台シーンがあることで強烈になっていると思うし、彼の猿楽をロックとして解釈したのが生きてくるところだとも思う。彼らのロックは語りを封じられることで打ち砕く術を失ったのだけれど。

なんというか、以上、話のエッセンスを抽出すれば真正面から私好みではあるのだけれど、やはりだからといってこのアニメ映画が好きかというとそうでもないというか。原作小説は改めて読んでみたくなったんだけれども。
呪いを解いても次の呪いが平然と涼しげに課せられる(と理解していいのかな)とか、その閉塞感を無視してないところとか好きである。命令のために袖を振るひとは振られた人の苦しみを容易に無視できるところとか。犬王が仮面を取ってからも濃い化粧の仮面をして、直面のまま怒りを飲み込んで笑顔を取り繕うのとか。どういう形を為しているのか分からない顔を覆い隠す仮面なんていうものは目に分かりやすく存在していないだけで素面の人々の顔にこびり付いてるのだものな。
母というものが失われているのも意識のはしに置くべきなのだろう。

累積していく彷徨える魂たちみたいなことも含有してる展開だと思うけど、なんかそこも曖昧なまま終わるというか。なんか、もうちょっと話をというか。

ロックだとかの派手派手しい要素にしても、本来それが持っているのだろう激しい感情や体制などへの反発なんていうもの、固定の枠を壊そうとするものみたいな激しさは私は特に作品から感じなかった。主人公たちの内面が曖昧なままというか。先ほどは友有が一座にいる間などは自身の呪いから目をそらせていたのだろうと思ってそのように言っていたけれど、実際はどうだかは全く読み取れない。犬王も残酷な身の上に何を思ってるのかは分からない。大衆たちだって彼らの目新しさに熱狂するだけでその内面は何も分からない。仮面の話でもあるので故意にやってるのかは知らんが。舞台シーンもずっと何かのオマージュみたいだったり見た目の派手さが続くばかりで、ロックとして表現することの型破りや破天荒さも含めてうわべみたいな感じが勝るというか。
このロックの精神性が平家の物語と重なり、鎮魂と重なり、強者の下にいる者たちの叫びとなっているはずなのだけど、それも少なくとも作中からは感じにくい。たぶん意図してるのは間違いないけど。

それはさておき、作中みたいなレベルになるともう犬王たちのパフォーマンス、義満、なかなか好きそうな気がするのだけど、始終大人しかったのがやや意外だった。進行上そうするしかないのは分かるけど。あと嫁がかわいい。
相対的に世阿弥やその一座が蔑ろにされてたところもやや感じるし。
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