真田ピロシキ

生きるの真田ピロシキのレビュー・感想・評価

生きる(1952年製作の映画)
4.0
カズオ・イシグロ脚本のリメイクを見る前に再鑑賞。生きているが生きていない。ただ役所でハンコを押すだけのミイラのような仕事をしてきた男が突然の末期癌発覚を前にもがく魂の彷徨い。

全カットに魂を吹き込む志村喬の様々な顔に目を釘付けにされる。何とか放蕩にでも耽ろうとする渡邉課長であるが、この真面目さだけが取り柄であったと思われる男が急に遊ぼうとしてもできるわけがない。私事で父がもう70代半ばで働くのもやめたいと言っているのだが、やめたらTVばかり見てボケてしまうと言ってて、だったら何か楽しみ見つけなよと勧めても無趣味な人間すぎて全然乗り気にならない。本人が乗り気でないならこっちもお手上げになったことを連想させられる。この中で課長の心に響いたのは若い頃の流行歌『ゴンドラの唄』。「命短し恋せよ乙女」というやつ。このシーン自体は感動シーンとして過剰にショーアップされてるわけではないのに、周囲が黙り込み見つめ課長の顔にアップしただけで目が潤む。

もう一つの印象的なシーンは、癌を打ち明けようとした息子に酷い勘違いをされ頼りにしようとしていた親子の絆に裏切られた課長が無理矢理話し相手になってもらってた元部下のとよに何かを作る事を諭され決意するところ。残り僅かな時間を持って新しく生まれた課長の背に偶然ハッピーバースデーが浴びせられる。よく考えるとベタな演出かもしれないが、本筋と言えるここまでにややダルいと思えるほど課長と周囲の絶望した空回りを見せられてからのこれ。タメが大きく受け取るものも多い。この一連の流れで課長はまず分かり合えていると思っていた息子と深刻な話をまともにできすらしないことを思い知らされている。とよも最初はお互い楽しく話せていたのだが、何度もやると話すこともなくて仕方なく。課長はその生命力に魅せられたと言っても、若い女性からすれば余命僅かな中年男性の重さを持ってこられても、可哀想ではあるが迷惑。どちらにも共通してるのは自分の生を他人に頼ろうとした。そうではなく、自分が初めて主体的に動いた事で短い間でも真に生きた。だけど死ぬ前に生きることを見出しても遅いんだ。日頃から本当に生きることを心がけていなければならない。

そんな思いが込められてか、本作は単なる感動物語に留めてあげてはくれない。意地が悪いとも言うべきか。課長の行為に感動し上役に憤りを覚えて後に続こうと決意しても、一時の熱気はすぐ冷めて取り込まれてしまう。他人の物語に自分を委ねている限り何も起こせない。これはSNSのハッシュタグだけで何かやれた気になっている現代人にも十分通じる。自分も偉そうなこと言いながら現実世界で実際に何かしてたとは言えなかった。そういう欺瞞が嫌になって、最近共産党に入党して出来る範囲で活動してるんだけど。これがどのくらい意味あるかは分からないが、死んでいないだけの人間になるのはゴメンだ。ましてやネトウヨや暇アノンのような何も作らず害しか与えないゾンビは地獄に堕ちろ。この映画は価値ある生とはどういうものなのかを強く訴える。