なっこ

生きるのなっこのレビュー・感想・評価

生きる(1952年製作の映画)
4.0
命短し恋せよ乙女

DNAに刻まれてしまっているのでは、というレベルで影響を受けている気がするので、点数をつけることさえも躊躇してしまう名作。

幼い頃に父が見ていたものを断片的に見ていた記憶はあったが、初めから終わりまで通しで見たのは今回が初めて。全く色褪せていない名作。普遍的なメッセージがここにある。子どものころの視点では大事なところを見逃していたのではないかと思っていたが、そうでもなかった。きっとこの作品は年齢を選ばない。いつ出会っても必ず大切な何かを教えてくれる作品だと思う。

彼がなぜ“ミイラ”(ミスタゾンビ)のような生きた方を選んでしまったのか、それは役所の何もしないことが仕事となるような働き方だけではないような気がした、それは多分私がいまこの映画を見ようと思った動機と重なる。妻を亡くし幼いひとり息子を育てることにだけ心を傾け、その喪失感に蓋をして生きることを選んだからではないだろうか。胃がんだと知り真っ暗な部屋で彼は何と向き合ったのだろうか。今回はそればかり考えていた。仏壇の妻の遺影の前で回想するわずかなシーン。彼の歩んできたそれまでの方が私は気にかかった。

ハッピーバースデー

死んだように生きていた男が、新たに生まれ変わるシーン。
あのウサギのぬいぐるみがテーブルを駆けるシーン。
あのシーンで交わされる会話は、カズオイシグロの書いたシナリオとは少しニュアンスが違う。もしかしたら宗教的な背景の違いからかもしれないが。生と死がすれ違うかのような黒澤の階段のシーンは名シーンとして名高い。
幼い頃に溺れた経験、これがイシグロ作では公園で遊ぶ幼い自分に変更されている。黒澤作で主人公が味わった恐怖、つかまるものもなくもがき沈む怖さは、まるで厄年の災厄を語る比喩のようだと感じた。もがけばもがくほど苦しむ、だから流れに身を任せなさい的なアドバイスを私はされたことがある。そんなことを思い出しながら、私は主人公のその苦しみを思うとき、真っ暗な闇の中にひとり居るような完全な孤独を感じた。息子は遠くにいる、あのとき父と母が遠くにいたように。そう語る言葉は、いまの私に真っ直ぐに響いてきた。分かるなぁ。喪失の哀しみや死の宣告は、そんな風に重くのしかかって全身を水底に沈めていくようなそんな苦しみだろう。そばに居る家族もあてにはならない。自分だけが頼りなのだ、その恐怖と戦うには。彼はその恐怖を振り払うものを見出した。その瞬間から彼の様子は一変する。

いかに死ぬべきか

WBCで優勝すると分かっていたなら初戦からちゃんと見たのな。そのくらいの野球ファン。だけど、物事の結末が最初から分かっていたなら、もっとここをこうしたのにとかいう後悔や愚痴はよくあることだと思う。でも自分の人生の結末は残念ながら分からないまま進むしかない。だからこそいかに死ぬべきかは、いかに生きるべきかを常に自分に問う作業に他ならない。

私には人を憎んでいる暇はない

純粋に自分の仕事を全うして向こう側へと旅立とうとする彼を心から尊敬する。

子どもが遊んだ後に揺れているブランコ

そこにどんな影を見出すだろうか。誰もが同じ像を心で結んだに違いない。誰もがその名を覚えているようなすごい人になろうとしなくても良いのだと思う。ここには居ない向こう側で褒めてくれる人のためにだって人は頑張れる。ただ自分の仕事を全うすればそれで良い。そういう姿勢が誰かの心に映っていつまでもきらりと光る希望のようなものになることだってある。私がいつまでもこの作品を心の中で大事に思っているように。
なっこ

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